蛍火の杜へ/緑川ゆき
407 名前:蛍火の杜へ(1) 投稿日:04/06/06 03:23 ID:???
蛍が彼に会ったの六歳の頃の、暑い夏の日だった。
妖怪達の住むといわれる山神の森で、迷子になり泣き出してしまった蛍の前に現れた
犬のような面をつけた、一人の少年。
蛍は人恋しさのあまり、彼の姿を見るなり抱きつこうとする。
だが彼は身をかわし、蛍は地面に激突するはめになった。
彼は蛍に謝り、こう言う。
「お前は人間の子供だろう?俺は人間に触れられると消えてしまう」
彼はこの森に住む妖怪だったのだ。
消えるとはどういうことなのか、興味を持った蛍は
執拗に彼を触ろうとせまるが、太い木の棒で殴り倒されてしまうのだった。

彼は山神にかけられた術によって、人間に触れられると本当に消滅してしまうという。
事の重大さを知り謝る蛍。
彼は、蛍に先ほどの棒を差しだし、先端を持つように言った。
手がつなげないのでこうして道案内をするというのだ。
感激した蛍は思わず彼に飛びつきそうになり、また殴り倒されてしまう。

山神の森をならんで歩きながら
「何かデートみたいデスネー」と、蛍。
「色気のないデートデスネー」と、彼。
蛍は、彼が妖怪だと知っても、少しも怖いとは思わないようだった。
森の出口になる鳥居に着き、また会えるかと問う蛍に彼は言った。
「ここは山神様と妖怪達の住む森。『入れば心を惑わされ帰れなくなる』
 『行っては行けない』と大人達に言われているだろう」
しかし、蛍は忠告に従おうとはしなかった。
「私は竹川蛍。あなたは?」
彼は答えない。
とにかくまた来る、と告げて走り去ろうとする蛍の背中に
言葉が投げられた。

「『ギン』だ」

408 名前:蛍火の杜へ(2) 投稿日:04/06/06 03:25 ID:???
振り返ると彼はもういない。
森を出た蛍は、迎えに来た祖父にこっぴどく叱られた。
帰り道、祖父は蛍に山神の森の話をしてくれた。
彼は子供の頃妖怪に会いたくて、友達と一緒によく山神の森に入ったらしい。
はっきりとはしないが、それらしきものを見たことがあったし
夏になると森のなかから、お囃子が聞こえたりしたこともあった。
妖怪達の夏祭りに、迷い込んだかもしれない友達もいたという。

翌日、蛍が森の入り口にやってくると
犬の面をつけた少年が鳥居の下で待っていた。
ギンだ。「本当に来るとは思わなかった」
感激してまた飛びつきそうになり、殴られる蛍。

蛍はギンに連れられ、また森深くに入っていった。
森の中で目を凝らすと、木々のすきまに蠢く影が見える。
影が言う。
「ギン、それ人間の子供か。食べてもいいか」
ギンは蛍を背中にかばい、拒否する。「駄目だよ、友達なんだ」
「……そうか。人の子、ギンの肌に触れてくれるなよ。
 もし触れれば、わしがお前を食ってやるぞ」
怯える蛍。
ギンがくしゃみで脅かすと、影は狐のような妖怪に変身して逃げていった。
蛍はさっき怖がっていたことも忘れ、本物の妖怪に会えたと喜んではしゃぐ。
しかしよく考えれば、ギンも妖怪なのだ。
蛍はふとギンの素顔が気になり、面をつけるわけを聞くが、彼ははぐらかす。
「おれのことはいい。蛍のことを話せよ」
蛍はすこし嬉しくなった。「興味ある?」
「あるから来たんだ」とギン。

409 名前:蛍火の杜へ(3) 投稿日:04/06/06 03:29 ID:???
それから蛍は毎日森を訪れ、ギンと二人で遊び回った。
ある日のこと、眠っているようすのギンを見て
蛍はどうしても彼の顔が気になり、そっと面をはずした。
素顔は、まるで普通の少年だった。
そのとき彼が目を開け、蛍は慌てて面を戻した。「ごめんなさい!」
蛍がもう一度面をつける理由を訊ねると、ギンはこう言った。
「こんな面でもつけていないと、妖怪には見えないだろう?」

蛍は夏休みの間だけ、祖父の田舎であるこの土地に遊びに来ていた。
最後の日に、明日からしばらく来られないとギンに告げた。
そっけないふりをしつつ、「来年も来られるか?」と訊ねるギン。
蛍は喜んで答えた「うん!」
それから、蛍は毎年夏が来るのを心待ちにするようになった。
会いに行くたび、ギンは蛍を待っていてくれた。
そんな夏が、何年も繰り返されていくのだった。

あるとき、木陰から大きな妖怪の手が伸びてきて
蛍の側に座っていたギンを抱き寄せ、こう言ったことがある。
「ギン、あぶない。それは人の子だ。触れられたらお前は消えてしまう」
ギンが森に住む他の妖怪達からも、慕われているのがよくわかった。
絶対にギンに触れるなと忠告され、蛍は「はい」と誓った。
蛍は妖怪をすこし羨ましく思う。
(妖怪さん達は、ギンに触れることができるのね…)
その後、蛍はギンを驚かせようとして木に登り、誤って落ちてしまう。
「危ない、ほた…」思わず手を差し伸べかけるギン。
寸前で身をかわし、蛍の体は受け止められずに落下した。
「……すまん、蛍。大丈夫か」
蛍は、よかったと言って笑う。
「ねぇ、ギン。何があっても、絶対私に触らないでね。……ね?」
蛍の目から涙がこぼれおちた。
「絶対よ」

410 名前:蛍火の杜へ(4) 投稿日:04/06/06 03:36 ID:???
「じゃーん、中坊になりました〜」
ある夏、蛍はセーラー服を着てギンのもとを訪れた。
「何か女みたいに見えるぞ」と、ギン。
一応女だと言ってむくれる蛍は、ふと気づいた。
目線の高さがすこしずつ近づいていくことに。
蛍は年を重ねるごとに姿が変わってゆくのに
ギンは出会った頃と、ほとんど変わらない姿だということに。
蛍は心のどこかで、ギンが本当は人間なのではないかと
あわい期待を抱いていたのだ。

凍てつく冬の日、蛍は級友に手を引かれて歩きながら、遠い夏を想う。
――ギンに 逢いたいです 
   ギンに 触れたいです――
同じ頃、ギンは雪の降りしきる森の中で……。

そしてまた季節は巡る。
その年やってきた蛍は、高校の制服に身を包んでいた。
「最近はもう飛びついてこないな」と言うギンに、蛍は憮然として答えた。
「あたりまえでしょ、あれだけゴスゴス殴っておいて」
蛍は高校を卒業したら、この土地で就職を探すつもりだと言う。
そうすればもっと一緒にいられる。秋も、春も、冬も、ずっと――
ギンは、蛍の夢を肯定しない。かわりにぽつりと言った。
「おれのことを話すよ」
ギンはいわゆる『妖怪』ではない。元は人間で、赤ん坊の頃森に捨てられたのだ。
本来はそのとき寿命が尽きたはずだったが山神が彼を憐れんで、生かしているのだ。
それに甘えて、いつまでも成仏しようとしない幽霊のようなものなのだ。
「蛍、忘れてしまっていいんだよ。妖術で保たれている体は、とても脆い。
 本物の体を持つ人間に触れると消えてしまう。
 そんなあやふやな存在に、君がいつまでも――」

411 名前:蛍火の杜へ(5) 投稿日:04/06/06 03:37 ID:???
蛍は、彼の言葉を遮るように言った。
「触れると消えてしまうなんて、まるで雪のようね」
冬の間もギンのことを考えていた。蛍はそう続けた。
「ギン、忘れないでね。私のこと、忘れないで」
いつか、時間が自分達を分かつだろう。
蛍はもう確信していた。
(それでも、そのときまで一緒にいようよ)

その夏、ギンは蛍を妖怪達の夏祭りに誘った。
今までは蛍が怖がるかと思い、誘えなかったのだ。
蛍はもちろん行きたい答える。
だが、妖怪ばかりの祭と聞いて少し不安がる蛍に、ギンは言った。
「大丈夫、見かけは人の祭りと変わりないし
 蛍はおれが守るよ」
「…そういうこと言われると、飛びつきたくなってしまう」と、蛍。
ギンは答える。
「飛びつけばいい。本望だ」

夜が訪れ、夏祭りが始まった。
森の中は妖怪達や夜店で賑わい、いつもとまるで違った雰囲気だ。
この祭りは、妖怪がみんな人間に化けているため
本物の人間も、間違って時々迷い込んで来ることがあるという。
二人はお互いの手を布でつないで、歩いた。
「ふふ、デートみたいデスネー」と、蛍。
「デートなんデスネー」と、ギン。

祭りの喧騒の中をならんで歩きながら、ギンは呟いた。
「蛍。おれ、もう夏を待てないよ。
 離れていると、人混みをかきわけてでも
 蛍に逢いに行きたくなるよ」
犬の面をはずし、蛍にかぶせて、その上からそっと口づけた。
「その面やるよ」

412 名前:蛍火の杜へ(6) 投稿日:04/06/06 03:39 ID:???
祭りの帰り道
素顔のギンと、面をつけた蛍は森の出口までやってきた。
そのとき、小さな子供が通りかかり転びそうになる。
ギンは思わず腕を掴んで助けた。
礼を言い去っていく子供を見送った後
蛍はギンの身に起きた異変に気づく。
指先が光の粒になって、空中に溶けようとしている。
先ほど、子供の腕を掴んだ手だ。
今の子供は、祭りに紛れ込んだ本物の人間だったのだ。
ギンは、消えゆく自分の指先をみつめ――
両手を広げた。
「来い、蛍。やっとお前に触れられる」

蛍がためらったのは一瞬だった。
被っていた面をはずし、たまらずギンのもとへ駆け寄る。
ずっと待ち望んでいた、お互いの体のぬくもり。

ギンの体は光になり
蛍の手には、彼の着ていた浴衣の感触だけが残された。

『好きだよ』
――ええ、私もよ――

ギンからもらった面を抱きしめ、人の世界への道を戻る蛍に
いつかの妖怪が語りかけてきた
「ありがとう。ギンはやっと人に触れたいと思ったんだね。
 やっと人に抱きしめてもらえたんだね」

蛍は、しばらくの間は夏を心待ちにできないだろう。
けれど、この手に残るぬくもりも、夏の日の思い出も
ずっと蛍と共に生きていく。