羊のうた/冬目景
253 名前:羊のうた[sage] 投稿日:2006/04/11(火) 01:16:26 ID:???
高城一砂(かずな)は幼少期の記憶が曖昧だ。
覚えているのは、一つ違いの姉がいたこと。母親が死んだこと。とても古い家に住んでいたこと。
そして今は父親の親友に預けられていること。
開業医だった父が今何をしているのはかは知らないし、どうして他の家に預けられたのかも分からない。
だけど今ではその家にも馴染み、普通の高校生として暮らしている。

例えば、一砂には片思いの相手がいる。同じ美術部の女の子、八重樫。
八重樫は無口で少し変わった女の子だ。いつも美術室で一人で絵を描いている。
だから今日も一砂は八重樫に会うために美術室を訪れる。
絵を描く八重樫と話をしていてふと赤い絵の具を見た一砂は、何故か目眩が。
気分が悪くなりそのまま横になると一砂は夢を見た。
あの古い家で父と暮らしたこと、そして姉らしき小さな女の子がいたことを。
気分が良くなり、家に帰る途中も夢に見たあの古い家のことが気になった一砂は
記憶を頼りに家があった場所に行ってみる。

そこには、昔のままの古い家がやはりあった。懐かしく思い中に入ると、一人の少女と出会う。
どこか一砂と似たその少女は、一つ違いの姉・千砂(ちずな)であった。
今でもこの家に住んでいるという千砂に対し
どうして自分だけ他の家に預けられたのか、父さんはどうしたのかを尋ねる一砂。
千砂は淡々と答える。父親は半年前に亡くなったこと。今では自分だけがこの家に住んでいること。
そして、一砂には普通に生きてほしかったからこそ他人の家に預けたこと。
訝しむ一砂に、千砂は皮肉げな嘲笑を浮かべて言う。
「だって高城の一族は吸血鬼の家系だもの」

254 名前:羊のうた[sage] 投稿日:2006/04/11(火) 01:18:53 ID:???
千砂が言うには、高城の一族は遺伝的な奇病に犯されているのだという。
それは血液内の成分を定期的に補給しないと生きていけない病気。
要するに、血が欲しくなるのだ、と。
そして、その病気に蝕まれて母親は死んだ。自分も同じ病気にかかっている。
「帰って、もうここには来ないで。あたしも吸血鬼よ。何するかわかんないわ」

家に戻って、冷静になって考えてみるが
自分はからかわれたのかもしれないし、本当なのかもしれない。
自分を引き取ってくれた父親の親友の江田夫婦にそれとなく聞くも、知らないと言う。
二人とも自分にとても良くしてくれているが
本当の親子ではないのでやはりどこか遠慮がある。
だから自分に嘘をついているのかも。一砂には分からなかった。

今日も同じように美術室に行った一砂は、八重樫から絵のモデルを頼まれる。
快諾する一砂だが、八重樫から顔色がどうも悪いと指摘される。
そう言えば昨日も何故か立ち眩みを起こした。貧血気味なのかもしれない。
貧血?まさか…。
千砂の言葉が脳裏をよぎる。吸血鬼の一族。血が欲しくなる。貧血。
途端に強烈な吐き気と目眩に襲われた一砂はそのまま倒れ込む。
八重樫が名前を呼ぶ声が遠くから聞こえる。千砂は一砂は発病しなかったと言った。
だから違う家に預けたのだと。だけどもし…。

気がつくと、そばには心配そうな顔をした八重樫が。
体調が悪いのに無理をさせてゴメン、と謝る八重樫に違うと言いたくなる。
だけど何を説明すればいいのか分からない一砂は
明日も来るから、と言い残し逃げるように美術室を去った。

255 名前:羊のうた[sage] 投稿日:2006/04/11(火) 01:20:40 ID:???
確かめなければいけない。決心した一砂は再びあの古い家を訪れる。
どうしてここに来たのか、と詰問する千砂にあの病気について詳しく聞く。
それは発病した者の末路。元は名家だった高城家はこの奇病のせいで没落。
大抵の人は病気によって精神的に追いつめられ発狂して死んでしまう。
あるいは自殺してしまう。
何故なら、定期的に凶暴なまでに血が欲しくなってしまう発病者は
世間的に危険な人物だから。弱者だから。

それを聞き、一砂は項垂れながら千砂に告白する。
少し前から、頻繁に立ち眩みが起こること。そして、自分じゃない何かが暴れそうになること。
それはつまり…。
いつか自分は人を襲うかもしれないと怯える一砂に、千砂はある薬を渡す。
理性がやばくなった時に飲むように、だけど決して飲み過ぎないように。
何の薬かと問おうとすると、丁度一人の男が高城の家を訪れる。
その男は水無瀬と名乗り、父親の古い知り合いなのだという。
そして体の弱い千砂の主治医なのだと。
とりあえず家に帰った一砂は、その日夢を見た。
八重樫の首筋に噛みつき、血を啜る夢を。そして千砂に優しく抱擁される夢を。

いつも通りに学校に行った一砂はいつも通り過ごしていた。
だけど自分だけはいつも通りではない。自分はもう普通の人間ではないのだ。
いつ人に襲いかかるか分からない危険人物。それが自分だ。
昨日見た夢を思い返した一砂は、八重樫に頼まれたモデルを断ることにする。
それを聞いた八重樫は、悲しそうな顔をして理由を尋ねる。
どうしてもう来れないのか。だけど理由を言える訳がない。
ましてや自分が吸血鬼だからだなんて。
追い込まれた一砂はつい「笑わない女は嫌いなんだ」と言ってしまう。
それを聞いた八重樫は美術室を飛び出し、一砂は一人自己嫌悪に浸る。

256 名前:羊のうた[sage] 投稿日:2006/04/11(火) 01:22:52 ID:???
もうどうすればいいのか分からず、一人帰り道で佇む一砂をあの“黒い”発作が襲う。
酷い頭痛。酷い吐き気。そして――。
耐え難い苦しみに、千砂から貰ったあの薬を飲もうとする。
だけどそれを飲んだらもう戻れない気して、どうしても口にできない。
どうすればいいのか。意識が薄れていく中、いつの間にか目の前に人が。
それは千砂だった。
発作が起きていると知った千砂は、おもむろに自分の腕をガラスで切って血を流す。
「どうしたの、飲んでいいのよ」そう言って腕を伸ばす千砂の顔は何故か今にも泣き出しそうだ。
「あきらめて、こっちに来なさい。こっちに来て…、一砂」
そして一砂はまるで誘われるように千砂の病的なまでに白い腕に口づけをした。

「どう、気分は?」「嘘みたいに落ち着いた」
何故かとても嬉しそうな微笑を浮かべる千砂は、一砂に昔のことを語る。
千砂が発病したのは三つの時だった。そして、千砂が最初に血を飲んだのは父親の血だった。
それからというもの、千砂は発作が起きる度に父親の血を飲んだ。
その度に父親の腕に生傷が増えていった。

父さんがいたからあたしは生きてこれたの。父さんがあたしを必要としてくれたから。
でも、父さんが本当に必要としていたのはあたしじゃない。
父親は千砂の母親のことをとても深く愛していた。
だから、母親が死んだ時、父親は千砂を代わりに溺愛することで立ち直れた。
あたしは、父さんにとって母さんの身代わりだったのよ。
そう語る千砂の表情は暗い。
そんな千砂に、一砂は言う。
「また家に行っていいかな?」「なに言ってるの?あなたの家じゃない」

257 名前:羊のうた[sage] 投稿日:2006/04/11(火) 01:27:10 ID:???
自分が本当に吸血鬼になったのだと自覚した一砂は、悩み始める。
自分はここに居ていいのか、と。
例えば本当の子供のように愛してくれる江田夫婦の家に。
例えば笑い合える友達や好きな人がいる学校に。

一方、千砂は高城の家で水無瀬の診察を受けていた。
千砂の腕に切り傷があることを知った水無瀬は、一砂が発作を起こし千砂の血を飲んだことを知る。
その事に対し、水無瀬は静かに千砂に言う。
「君は第二の父親を見つけたんだ」
かつて父親が死んだ母親の代わりに千砂を愛したように
千砂は死んだ父親の代わりに一砂を愛そうとしているのではないか、と。
千砂はそれを真っ向から認める。自分には父さんしかいなかったから。
それを聞き、水無瀬はどこか諦観の表情を浮かべながら独白する。

かつて水無瀬は千砂の父親の教え子だった。
頻繁に高城の家にやって来ていたからこそ、千砂と父親のいびつな親子関係に気付いていた。
だから、水無瀬は千砂を父親の呪縛から解放してあげたかったのだ。
だけど、父親が死んだ今でも千砂は父親の影に捕らわれている。
僕の入り込む隙間なんてない。先生が死んだ今でも…。

水無瀬が去り、誰もいなくなった家で千砂は父のことを思い返す。


258 名前:羊のうた[sage] 投稿日:2006/04/11(火) 01:28:39 ID:???
母親が亡くなり、いつか人を襲うかもしれない千砂を施設に預けるよう祖母に勧められる父親の後ろ姿。
「あの子は生まれてきてはいけなかったのよ」

桜の樹の下には死体が埋まっている。そんな話を信じて庭の桜の樹の下を掘り続ける幼い千砂。
だって、桜の樹の下には死んだ母親が埋まっているかもしれないから。
だからこそ綺麗な花が咲くんだって。
「違うよ、お母さんはそこじゃないよ」
そう言って千砂を抱きしめる父親は泣いていた。声を殺して震えながら。
千砂は自分のことを忘れ、父がかわいそうで泣いた。
そして、それが始まりだった。

父は母親によく似た千砂を必要とし、千砂には必要とされている充足感が必要だった。
だから、例えそれが禁じられたものだとしても千砂は盲目的に父親を愛した。
だけど、結局は父親も千砂を残して逝ってしまったのだ。
そして、この町には父親にとてもよく似た一砂がいる。
私はまだ父さんの影から逃れられない。
千砂は一人、静かに声を殺して泣くのだった。

259 名前:羊のうた[sage] 投稿日:2006/04/11(火) 01:30:56 ID:???
一砂は誰も傷つけないように、いつ発作が起きても大丈夫なように
学校でも友達や知人と適度に距離を置いて生活していた。
そして八重樫とも。
だけど一人、美術室を訪れた一砂は、八重樫が描いた描きかけの自分の絵を見つける。
自分はどうすればいいのか。守りたかったから遠ざけたのに、遠ざけたから八重樫を傷つけている。
俺は…。その時、机に腕が当たって、机の上に乗っていた絵の具の瓶を割ってしまう。
その絵の具の色は、血のような、赤。
真っ赤だ。
それを見た一砂は発作を起こす。動悸、息切れ、目眩、頭痛。
千砂の忠告を思い出す。「今度は薬を飲みなさい」
すぐさま鞄から薬を取り出して、飲む。
早く効いてくれ…。でも血の臭いが頭から離れない。
こんな薬で抑えたって、いったいいつまで続ければいいんだ…。

丁度その時、八重樫が美術室を訪れる。
具合が悪そうに蹲る一砂に駆け寄る八重樫。それを一砂は厳しく拒絶する。
何をするか分からないから。
だけど八重樫は理由が分からず悲しそうに涙を流す。
どうして自分を拒絶するのか。どうして変わってしまったのか。どうして。
良心の呵責に耐えきれなくなった一砂は八重樫に全てを打ち明ける。
自分は奇病に犯されていること。その病気は血が欲しくなること。
そして血が欲しくなると何をするか分からなくなること。
だから俺には近寄らないでくれ。
それを聞いた八重樫は、美術室を去っていった。

残された一砂は、朦朧とする意識の中、血を求めて高城の家に向かった。
どうも一砂には、あの薬の効き目が薄いらしい。
高城の家の前で蹲る一砂を見た千砂は、やはり悲しそうな
それでいて優しい笑みを浮かべて自らの血を一砂に分け与える。
「あなたを癒すことができるのはあたししかいないのよ」

260 名前:羊のうた[sage] 投稿日:2006/04/11(火) 01:37:17 ID:???
自分が他人の血を啜らないと生きていけないことに、絶望する一砂。
そんな一砂に、自分も必要としてくれる人がいなくなった時は死にたかったと千砂は語る。
そして父親の死因を千砂は静かに語る。

父親は自殺だった。水無瀬宛の遺書に“娘をよろしく”とだけ書き残し、
薬を飲んで、まるで眠るように死んだ。
きっと、父さんは自分に嘘をつき続けることに疲れたのよ。千砂はそう語った。
「あたしにはあなたが必要だわ…。だから生きていて」

こんな自分でも必要としてくれる人がいると知って、安らぎを得る一砂。
そして、いつ発作が起きるか分からない自分はもうあの日常には戻れない。
おじさん達とはもう暮らせないし、学校にももう行けない。
だから、一砂と千砂はこの古い高城の家でたった二人で暮らすことを決意する。

一砂が学校に来ていないことを知った八重樫は
一砂が語った病気のことが本当かもしれないと思い始める。
一砂なら、他人の血が欲しくなるなんて病気にかかれば
きっと他人から遠ざかろうとするだろうから。
その事に気付いた八重樫は、一砂の嘘にもまた気付く。
一砂が自分を拒絶するのは、傷つけたくないと思っているから。
そして傷つけたくないと思っているということは、自分のことを大切に思っているから?
八重樫は一砂の本心を確かめに一砂に会いに行くことに。

261 名前:羊のうた[sage] 投稿日:2006/04/11(火) 01:38:44 ID:???
一砂がいつも使っている電車のホームで運良く一砂に会うことができた八重樫は、
近くの公園で一砂に告白する。
「何を聞いても平気だよ。だってあたし好きだもん、高城くん…」
だから病気のことを詳しく聞きたいと言う。彼女の瞳には迷いがない。
そんな八重樫を見て、何とか拒絶しようとするが、何故か彼女に血のイメージがちらつく。
視界が赤く染まる。八重樫だけは巻き込みたくないのに。
そして発作を起こして蹲る一砂に、決意を秘めた表情で近寄る八重樫。
手にはペーパーナイフ。それで指先を切る。流れ出る血。
「高城くん…、血が、要るんでしょ?」
一砂は言う。他人を傷つける前に消えたかった。だから飲めない。
八重樫は言う。あたしだけは傷つけたくないって言葉を信じたから、だから飲んで。
耐えきれずに八重樫に掴みかかる。八重樫の瞳に怯えの色はない。
その代わりに、赤い、血のイメージが…。
次の瞬間、一砂は意識を失いその場に倒れ込んだ。

病院に運び込まれた一砂は、その病院で医者もやっていた水無瀬の計らいで日射病だと判断される。
もっとも、高城の血の病は心の病。特殊な精神鑑定をしない限り分からないのだと言う。
知らせを聞いて駆けつけた江田夫婦に、千砂は高城の家で一砂と二人きりで暮らすことを話す。
高城の奇病を知っていた江田夫婦は、一砂が発病したのかと危惧するが
一砂が二人には知られて欲しくないことを知っていた千砂は嘘をつきごまかす。
姉弟が一緒に暮らすの自然なことだと話す千砂に
江田夫婦はとりあえず様子を見るといってその場は引き下がった。

262 名前:羊のうた[sage] 投稿日:2006/04/11(火) 01:40:55 ID:???
後日、医者である水無瀬に相談した一砂は、もう八重樫とは会わないことを決意する。
それは、どうして八重樫と会うと発作が起きるのか、という相談。
水無瀬は言う。恋愛衝動と破壊衝動は併存している。
だから、もう会わないほうがいい、と。
見舞いに来てくれた八重樫に結局一度も会うことなく、一砂は退院した。
みんな、忘れて生きなくてはならない。

二人きりで高城の家で暮らすことになった一砂と千砂。
かつて父が使っていた部屋を使い、かつて父が来ていた服を着る一砂は、びっくりする程父親に似ていた。
まるで父が生き返ったかのように。その事に千砂は僅かに動揺する。
表面上は穏やかに暮らす一砂と千砂。
だけど一砂は自分に未来がないことへの不安と恐れから悪夢を見る。
そんな一砂を優しく抱きしめて慰める千砂。
そして告白する。自分はかつて父親に首を絞められたことがある、と。
寝ている千砂の首を絞めて殺そうとした父。だけど殺しきれなかった父。
千砂は抵抗しなかったけれど、どうして父がそうしたのかは分からない。
父親が自殺しのたはそのすぐ後だった。

江田夫婦のマンションに置いたままの自分の荷物を取りに戻った一砂は、そこで江田のおばさんと出会う。
千砂と二人だけで暮らすなんて無理だ、だからこの家に戻ってきなさい。
そう諭すおばさんを、一砂は拒絶した。発病しているから。それを知られてはいけないから。
だから、自分たちは結局他人で、家族ごっこをしているだけだったと口にする。
それは半分嘘で、半分本当の本音。だけど一生言うつもりはなかった。
そのまま口論になり、一砂は江田の家に別れを告げた。
本当の子供のように接してくれたおじさん。本当の子供になるように勧めてくれたおばさん。
ごめんなさい。さようなら。

263 名前:羊のうた[sage] 投稿日:2006/04/11(火) 01:43:53 ID:???
他人を傷つけて切り捨ててまで生きる意味なんて本当にあるのか。
自己嫌悪に苛まされ、うんざりした一砂は、発作を起こしても千砂の血を飲むことを拒否する。
こんな救いなんてない状況でどうして千砂は生きていられるんだ。
そう問いつめる一砂に、千砂は言う。復讐だと。

父さんの為に生きた。なのに、結局父さんはあたしを置いて逝った。
だったら、父さんがいなくなっても生きる。後を追うことなんてしない。
それが復讐だと。
「でも、だったら憎い筈の父さんに似ている俺をどうして助けたんだ」
ただ、あなたの側にいたいと思った。助けたいと思った。例え父さんの身代わりでも。
それだけは本当よ、千砂は泣きながらそう言って、一粒の錠剤を取り出す。
それはかつて父が飲んで自殺した薬。
もし、本当に死にたくなった時にはそれを飲みなさい。
お守り代わりに持つといい、と千砂は一砂に錠剤を渡した。

そして結局、一砂は錠剤の代わりに千砂の血を飲んだ。

267 名前:羊のうた[sage] 投稿日:2006/04/11(火) 10:13:45 ID:???
学校に来なくなった一砂を心配した八重樫は、どうにか一砂に会おうとするも未だに会えずにいた。
一砂の性格から考えて、もう自分には会おうとしないだろう。
もしかしたら、もう二度と会えないかもしれない。
そう思った八重樫は一人帰り道で泣く。そこを偶然千砂が通りかかる。
病院で会って千砂が一砂の姉だと知っていた八重樫は、千砂に伝言を頼む。
新学期、学校で待っている。ずっと待っているから、と。
そんな八重樫に、千砂は冷たく答える。
もう一砂には会わないで欲しい。何故なら、一砂はあなたに怯えているから。
あなたを傷つけるかもしれない自分に怯えているから。
誰かを傷つけたら、私たちはお終いなのよ。
「それでも私、高城くんの力になりたいです」
「一砂を癒せるのは同じ苦しみを持った私だけよ。あの子を護れるのもね」
そう言って立ち去る千砂。その場で静かに涙をこぼす八重樫。

一砂は八重樫を遠ざけることで守った。
そして千砂も同じ理由で、子供の頃から他人と必要以上に親しくなろうとはしなかった。
千砂は一人だった。
「おかえり」「…ただいま」
でも今は家で一砂が待っている。

268 名前:羊のうた[sage] 投稿日:2006/04/11(火) 10:15:25 ID:???
千砂…桜の樹の下にはね…。だからあんなにきれいな花が咲くのよ…。
ある晩、母親の夢を見た千砂は発作を起こす。
うなされる千砂の声に気付いた一砂は、水無瀬を呼ぼうとするが千砂は拒絶する。
すぐに良くなるから、と。
そしてうなされながら、一砂に語りかける。
お願い、わたしを必要として。ずっとわたしの傍に居て。もうわたしを独りにしないで…。
そんな千砂を一砂は抱きしめる。かつて父親が千砂にしたように。

落ち着いた千砂は、一砂に昼間八重樫と会ったことを告げる。
彼女が一砂に会いたがっていたことも。でも、高城の家の場所は教えなかった。
その理由の一つは、高城の秘密を守るため。
だけどもう一つは、怖かったから。何だかとても怖かったから。
「あの子に会いたい?」
その質問に答えず部屋を出て行こうとする一砂に、千砂は無理矢理口づけをする。
そして泣きながら告白する。

わたしは、父さんと同じことをしようとしている。
死んだ父さんの代わりに、一砂を縛ろうとしている。
一砂を救いたいなんて、結局は詭弁で、本当は父さんに似ている一砂の傍に居たいだけ。
人形でも、母さんの身代わりでもいい、私はただ父さんに傍に居て欲しかった。
「俺が、ずっと傍に居るよ」
全てを吐き出した千砂は、いつもより一回り小さく見えた。

269 名前:羊のうた[sage] 投稿日:2006/04/11(火) 10:18:05 ID:???
千砂の心に触れることができた一砂は、これからは千砂を守って生きていこうと決意する。
だからこそ、千砂の病気のことをもっと知っておかなければならない。
千砂は高城の奇病だけでなく、他に…。

千砂の主治医である水無瀬を捕まえて、詳しく聞くと、千砂は生まれつき心臓が弱いのだという。
そして、血の発作を抑えることのできるあの薬。
あれは常用すれば心臓に負担がかかるのだと。
だから、あの薬を飲み続ける限り、千砂はいつかきっと…。
でも、千砂は父親以外の血を決して飲もうとはしなかった。
薬で発作を抑える以外手段がないのだと。
本当は僕が先生の代わりに血をあげたかった。だけど彼女は僕の血を飲もうとはしなかった。
でも、先生に似ている君の血なら彼女は飲むかもしれない。
水無瀬を一砂にそう告げた。

千砂の父親への深い愛憎を知った一砂は
父親に似ている自分の存在が千砂を癒すどころか逆に苦しませているのかもしれないと思う。
だけど、一砂は千砂に惹かれ始めていた。
そしてまた千砂も。

270 名前:羊のうた[sage] 投稿日:2006/04/11(火) 10:20:25 ID:???
姉弟以上に惹かれ合い始めた一砂と千砂。
夜空に浮かぶ月を見ながら、二人は寄り添うように再び口づけをする。
その瞬間。一砂は発作を起こす。いつもより激しい発作を。
まるで意識が飛ぶように。黒い衝動が。
落ち着くように言う千砂の首筋に、一砂は抱きしめるように噛みついた。
そしてそのまま血を啜る。だけど、千砂の表情はどこか恍惚としていた。
「もっとわたしの血を求めて…。わたしの血があなたの血となり骨となる…」

我に返った一砂は千砂に謝る。そんな一砂に千砂は嬉しそうに言う。
気にしなくていい。わたしの血があなたの肉体の一部となる。
これ以上の結びつきは無いわ。絶対に破られない約束よ。
「それなら、何故千砂は俺の血を求めないんだ」
やっぱり、俺じゃだめなのか?俺は身代わりだから、似ていてもやっぱり父さんじゃないから。
俺の“渇き”は千砂にしか癒せない。千砂が父親に対してそうであるように。
父さんの代わりじゃなく千砂に必要とされたいんだ。

自分の父親に嫉妬することになった一砂に対し、動揺を覚えながらも千砂は言う。
「必要としているわ」
与えられるだけだったわたしが初めて与える喜びを知ったわ。
一砂には父さんと同じことをしたくない。それでは父さんと同じになってしまう。
一砂にわたしと同じ想いをさせられない。

271 名前:羊のうた[sage] 投稿日:2006/04/11(火) 10:21:46 ID:???
一砂が学校に来ない日々は続いていた。
もう会えないかもしれない。それでも八重樫は諦め切れずにいた。
以前一砂が入院した病院に行き、水無瀬に会って一砂の居場所を聞こうとする。
八重樫が一砂の病気のことを知っていると知った水無瀬は、忠告する。
発病してしまった以上、彼はもう今までの生活と決別しなくてはならない。
だから忘れなさい。彼の為にも。傍に居ても何もしてやれないのは、会えないより辛いことだと思うがね。
「会えなくてもいいんです。一目遠くから姿を見ることができれば、それでいいんです」
「辛くないのかい?」
「忘れてしまったら、もっと辛い」
涙を浮かべ、それでも真摯に言う八重樫、水無瀬は根負けして一砂の住所を教えることに。

その頃、高城の家では千砂が発作を起こしていた。
もともと体が弱い千砂にとって凶暴な衝動が起きる発作が長く続くと命に関わる。
自分の腕を噛み切り、自分の血を飲むように勧める一砂。
だけど千砂はどうしても一砂の血を飲もうとはしない。
一砂の血を飲むということは、一砂を父親の身代わりとすることだから。
そしてそのまま千砂は意識を失った。
連絡を受け駆けつけた水無瀬は千砂を無理矢理入院させる。
これ以上発作を起こすと千砂の体が耐えられないかもしれないから。

千砂を水無瀬に預け、一旦家に戻った一砂を待っていたのは八重樫だった。
会うつもりはなく、心配だったから遠くから様子を見たかったと話す八重樫を
一砂は冷たく突き放す。他にどうしようもないから。
「俺は大丈夫だから、俺のことはもう心配しないで忘れて欲しい」
「だけどわたし、忘れるなんてできないよ。傷つけられてもいいから一緒にいたい」
もう姿を見せないでくれ。一砂はそう言い残し逃げるように家の中に入っていった。
残された八重樫に、前に千砂に言われた言葉が響く。
「一砂を癒せるのはわたしだけよ。あの子を護れるのもね」
八重樫は耳を塞ぎ、泣きながら帰って行った。

272 名前:羊のうた[sage] 投稿日:2006/04/11(火) 10:24:00 ID:???
病院で目を覚ました千砂に、水無瀬はもうあの家には帰したくないと告げる。
あの家に戻っても同じ事の繰り返しだ。
一砂の血を拒むことで、父親を断ち切れると思っているだけだ、と。
「君を失いたくない。だから今は僕の言う事を聞いてくれ」
そんな水無瀬に千砂は言う。
わたしに残された時間があとどれくらいなのかはもう知っている。だからこそ、一砂の傍に居たいのだと。
この体がどうなっても、一砂の血は飲まない。そうすれば父親から解放されるから。
そして結局千砂は高城の家へと戻っていった。
水無瀬は自嘲気味に独白する。
最初から分かっていた。最初から手の届かない彼女だったから、だからこそ僕は…。

そしてまた、高城の家での二人きりの生活が始まった。
寄り添うように、静かで穏やかな生活が。
千砂は一砂には内緒で発作が起きる度にあの薬を飲んで抑えていた。
一砂の血を飲む訳にはいかないから。
そして自分に残された時間が少ないからこそ、
千砂は一砂にかつて彼がいた日常に戻って欲しいと思うようになった。
自分がいなくなっても大丈夫なように。
そこで、千砂は一砂に学校に行ってみるように勧める。
幸い、一砂はここ最近大きな発作を起こしていなかった。
千砂に強く勧められ、結局一砂は学校に行くことに。

273 名前:羊のうた[sage] 投稿日:2006/04/11(火) 10:27:09 ID:???
もう戻れないと思っていた場所。だけどまた戻って来れた。
嬉しく思う反面、一砂はなるべく八重樫に会わないように避けていた。
八重樫もまた、一砂が自分と会おうとしないなら、自分からは会えないと一砂を避けていた。
そんな中、偶然赤い絵の具を見てしまった一砂は発作を起こすことに。
このままもし誰かを傷つけたら…。
一砂はそのまま人気のない校舎裏に逃げ込み、蹲る。
やっぱり無理だったんだ、普通の生活なんて、俺にはやっぱり…。
頭痛と目眩に襲われながら、一砂の意識は薄れていく。

そこに、八重樫がやって来る。校舎裏に走り去る一砂を見かけて、発作が起きたと気付いたのだ。
前と同じように、カッターナイフで自分の指を切ろうとする八重樫の手をはね除ける。
「どうして分かんないんだよ。俺はあんたにそんな事を望んじゃいない。俺のことを忘れて欲しい。それだけだ」
自分に構うことを頑なに拒絶する一砂に、そのまま抱きつく八重樫。
赤い、血のイメージが。
「離れろ、八重樫!」「いやっ、離したらもう二度と高城くんと会えないもん」
八重樫の匂い…、微かに甘い…。
一砂の脳裏を過ぎるのは八重樫と初めて会った頃のこと。

初めて見たのは放課後の美術室だった。いつも誰もいない美術室で絵を描いていた。
おとなしくてあまり友達もいなくて、笑わないそのこの事が気になって仕方なかった。
どうしていいか分からないからずっと遠くで見てた。
自分の感情が何なのかもよくわからなかった。気付いた時にはそのこは近くにいて俺を見ていた。
だけどその時にはもう、俺はそのこの近くにはいられなくなっていた。
「忘れるなんて、できるわけない」
「…いいよ」

一砂はゆっくりと八重樫の首筋に口を当て、そのままキスをするように噛みついた。

274 名前:羊のうた[sage] 投稿日:2006/04/11(火) 10:28:59 ID:???
一砂が我に返ると、目の前には首筋に手を当て、そこから血を流す八重樫が。
それを見て、項垂れながら一砂は告白する。
わかっていたんだ、発病したときから…。本当に俺が求めているのは誰の血かを…。
「だけど…ごめん、俺の気持ちは変わらない。やっぱり巻き込むことはできないよ」
「あたしが望んでも?」
ずっと待ってる、あたしの気持ちも変わらないよ。
二人は少しの間だけむつみごとのように手を繋ぎ、そのまま別れた。

一方、千砂の元には一人の女性が訪れていた。
風見と名乗る女性は以前、開業医をしていた千砂の父の下で看護師をしていたと言う。
そして、どうして先生が自殺したのか、その理由を知りたい、と。
その執着ぶりから、千砂は風見が父親に惚れていたことを見抜く。
そして、自殺の理由を調べていく内に、風見は高城の奇病のことにも辿り着いていた。
そんな風見に、千砂は父の自殺の理由を語る。
父は母を深く愛していたこと。だから母が死んでその代わりに自分を愛したこと。
だけど自分を騙し続けることに疲れて自殺したこと。

それを聞き、風見は少し不審に思う。何故なら、千砂の母は亡くなったことにはなっていない。
風見はいけないと知りつつ、恩師の自殺の理由を知るため高城家の戸籍を調べていた。
そこには、千砂の母である百子は十四年前に失踪したことになっている。
それを聞き、ひどく動揺する千砂。
自分は確かに母が死ぬところを見た。桜の樹の下で手首を切って。
優しかった母。綺麗だった母。母が大好きだった。だけど――。
記憶の底に、思い出してはいけないことがある。
次の瞬間、千砂は発作を起こす。
自分の命を縮める薬を飲み、発作を抑える千砂。
それを見た風見は、ちゃんとした病院で、根気よく治療すればいつか治ると助言する。
だけど、千砂はその提案を拒絶する。
何故なら、高城の一族は畏怖の目で見られながら生き長らえるより、普通の人間として死ぬことを選んできたから。

「わたし達は羊の群れに潜む狼なんかじゃない。牙を持って生まれた羊なのよ」

275 名前:羊のうた[sage] 投稿日:2006/04/11(火) 10:32:08 ID:???
それ以降、千砂は何故か母の事を思いだそうとすると発作が起きそうになる。
まるで、思い出してはいけないみたいに。
一砂もまた、八重樫の血を飲むという禁忌を犯してしまった。
だけど、二人で生きていくしかない。
そんな中、再び千砂が発作を起こし、意識を失ってしまう。

千砂は夢を見ていた。
それは幼い頃の夢。母が生きていた頃の夢。
千砂の母も、高城の病気で苦しんでいた。
千砂を愛しているから抱きしめたいが、傷つけないよう遠ざけるしかない。
その矛盾によって心身共に疲れ、苦しみ、少しづつ精神を病んでいった。
そしてある日、とうとう母は疲れ切ってしまった。
「そう、疲れたのよ、もう。ごめんね、千砂…」
そう言って千砂の首を絞める母。「大丈夫、お母さんも後から行くから」
苦しみから、千砂は反射的に傍にあったハサミを掴み、覆い被さる母を退けようとして、そして――。

千砂が目を覚ますと、そこは病院だった。
全てを思い出した千砂は全てに絶望する。
母を殺したの自分だった。その母の死体を桜の樹の下に埋めたのが父。
そんな父を自殺に追い込んだのもまた自分。
かつて祖母が言った通りに…。
「わたしは生まれて来るべきじゃなかったのよ」
そんな千砂を必死に慰め、励まそうとする一砂。
だけど水無瀬が言うには千砂の体はもう限界だった。
後は彼女の体力がどこまで持つのか次第だと。
この日から、千砂の体力は目に見えて衰えていった。
そんな千砂に自分ができるのは、傍にいることだけだ。
病院で死ぬのはイヤ、と言う千砂の望みを叶えるために自宅で療養することに。
一砂は付きっきりで看病するが、千砂は日に日に痩せていく。
まるで死の色を強めていくかのように。
そして、その日は来た。

276 名前:羊のうた[sage] 投稿日:2006/04/11(火) 10:34:16 ID:???
ある晩、とうとう千砂が発作を起こしたのだ。
死に直面した千砂は、最後に一砂に告白する。
あなたに会えたから、わたしは父さんの影から逃れることができた。
「あなたを、弟でも、父さんの代わりでもなく、愛したわ。本当よ、命をかけて。ありがとう」
「俺は後悔なんかしていない。千砂に会えた事も。千砂を愛した事も」
「傍に居てくれてありがとう。同情でも嬉しかった」
そう言って微笑む千砂に、一砂は否定する。
同情なんかじゃない。千砂と居たのは俺がそうしたかったからだ。
同情でも、千砂の血が欲しかったからでもない。一人の人間として千砂に惹かれたからだ。

「俺は…千砂を選んだ」
「それ以上の言葉は無いわ…」
「証明しようか」
一砂はそう言って一粒の錠剤を取り出す。
それはかつて父親が自殺した錠剤。以前、お守り代わりに千砂が一砂に渡した錠剤。
「千砂がいなくなったら…これを使う」
千砂は必死に一砂を止めるも、一砂は微笑みながら答える。
実は一砂の病気が全然良くなっていないこと。だから。
「俺は千砂がいないとだめなんだ。俺も行くよ」
そして、二人は寄り添うように手を繋ぎ、まるで眠るように横たわり――。

277 名前:羊のうた[sage] 投稿日:2006/04/11(火) 10:36:51 ID:???
数ヶ月後――。
高城一砂はここ一年の記憶がない。
知っているのは、自分がある薬によるアレルギーで意識不明の重体だったこと。
その後遺症でここ一年間の記憶がなくなっていること。
そして今はリハビリ中だということ。
だけど、片思いの女の子、八重樫が頻繁に見舞いに来てくれるのでそれでいいかと一砂は思っている。

江田夫婦もそれでいいと思っている。
一砂が失われた記憶を取り戻せば、また苦しむことになる。
だけど、何かの拍子で一砂の記憶が戻っても、また病気が再発してもやり直せる。
今度こそ本当の親子になれると思うから。

水無瀬は八重樫に語る。
彼女の存在は僕の人生に色濃く影を残しながら、実体は決して手に入らなかった。
そういう生き方を僕は選んだ。僕は絶対に消えない影を手に入れたんだ。

一砂が退院の日、八重樫は迎えに行った。
屈託なく笑う一砂を見て八重樫は思う。
千砂さんの死は、きっと高城くんの一番深いところにしまわれたんだ。
全てを彼が思い出した時、わたしは彼女に勝てるだろうか。
この先彼が失った一年間を思い出すことがあるかもしれない。
“その時”をわたしは恐れない。ここから始めればいいのだから。

羊のうた 終わり