あすなろ坂/里中満智子
177 名前:マロン名無しさん[sage] 投稿日:2006/10/01(日) 00:34:09 ID:???
もうリク主さんは見てないかもしれませんが、未解決リストにある『あすなろ坂』を投下します。
かなり長文(全部で40レス弱)です。分かりづらい纏めになってたらすみません。

あすなろ坂 里中満智子 77〜80年連載 文庫版全5巻(単行本全9巻)
幕末〜第2次大戦後にかけての有馬家4世代を描いた物語です。

第1部 夜明け編 第2部 朝やけ編 第3部 若葉編 第4部 うず潮編 第5部 向日葵編
第6部 風花編 第7部 積乱雲編 第8部 春雷編 第9部 蒼空編 となっています。

178 名前:あすなろ坂第1部 夜明け編1/4[sage] 投稿日:2006/10/01(日) 00:36:00 ID:???
岡村(有馬)芙美・・・会津藩重臣の娘。
帯刀(橋本)新吾・・・会津藩の武士。(白虎隊の一員?) 母は芙美の乳母。
有馬武史(たけふみ)・・・江戸詰めの会津藩の武士。

1.
幕末の会津。剣や馬を愛する少女・芙美は、近々嫁ぐ事が決まっていた。嫁ぎ先は会津藩でも
指折りの名士・有馬家。周囲から羨望の眼差しを受け、何となく幸せに感じている。
幼馴染の新吾は芙美に惹かれているが、身分の違いからその想いは胸に秘めていた。
遊郭に誘われても、「惚れてもいない女を抱ける男にはなりたくない。惚れた女を抱けないなら
一生誰も抱いたりしない」と答えていた。
ある日、芙美は1人で剣の稽古をする新吾に勝負を挑んでみるが、すぐさま倒されてしまう。
悔しいと思いつつも、新吾との体格の差や新吾の汗の匂いなどを感じ、自分とは違う、と初めて
意識する。

江戸へ発つ前夜、芙美は乳母・梓から子供の作り方を教えられる。嫁入りとはただ綺麗に着飾り
大人しくしていれば良い、と考えていた芙美は結婚が怖いと思い始める。
落ち着かず庭に出てみると、偶然新吾が居た。男女の営みについて知っているか、と芙美は新吾に
聞いてみた。新吾は当然知っていた。
商売にする女性も居ると聞いて、新吾が友人から遊郭へ誘われていたのをふと思い出し、新吾の
汗の匂いを知る人が自分以外に居る……と嫉妬のようなざわめきを覚える。

剣を生きがいにする新吾に対して、「私の生きがいは何か。このままで良いのだろうか」と自分
自身に問い掛ける芙美。有馬家の嫁に1歩ずつ近づいているのが怖くなっていた。
途中、嫁入りをやめるから引き返してほしいと頼むが、同行していた新吾に「武士は1度決めた
事は命をかけてもやり通す。武士の娘が嫁入りを白紙に戻すと言うからには、命を捨てる覚悟は
あるのか」と問われ何も言えなくなってしまう。

到着まであと3日。滞在中の宿で、芙美は嫁入りに浮かれていた以前の自分を恥じる。
道中見かけた貧しくとも幸せそうだった女性を思い出し、「どんな辛い暮らしでも、あなたとなら
怖くはない。身近すぎて気づくのが遅すぎた」と新吾へ想いを打ち明ける。
しかし、新吾の気持ちがどうであれ芙美の取る道はただ1つ、有馬家へ嫁ぐ事である。
新吾は明確な回答を避けてその場を立ち去った。

179 名前:あすなろ坂第1部 夜明け編2/4[sage] 投稿日:2006/10/01(日) 00:37:33 ID:???
一行は会津藩邸へ到着した。芙美が邸内に立つ1本の木に目を留めると、それは『あすなろ』で、
「明日は檜になろうと一生懸命伸びている木」だと出迎えた男が説明する。
これが、芙美と夫になる有馬武史の出逢いであった。

芙美が武史と迎える初めての夜。
新吾は、芙美の告白に応えられなかった意気地のない自分を責めながら1人夜を過ごす。
芙美もまた、新吾への想いから武史に抱かれるのを泣きながら拒否し、これからどうやって自分の
人生を過ごせば良いのかと思い悩むのだった。

2.
有馬家に入ってから1ヶ月ほど経つ。芙美は武史の妻という立場に未だ慣れない。
芙美に同行して江戸に来た新吾達は、役目を終えて明日会津へ戻る。武史は知人の医者・園田の
家へ泊まると言って芙美を残し外出した。芙美はお別れを言いに新吾の部屋を訪れる。
幸せにと言われ、芙美は「まだあの人のものじゃない。新吾以外の人の汗の匂いを知りたくない」
と新吾の胸に縋りつく。
想いを断ち切れずにいた新吾は芙美を抱きしめ、2人は結ばれる。
新吾は「一生涯、芙美だけを想い続ける」と約束した。
翌朝、新吾の布団に芙美のお守りを見つけた梓は2人の仲を疑うが、自分さえ黙っていればと
新吾を問い詰めはしなかった。
帰郷する新吾の姿を見送りながら、芙美はより一層新吾への想いを募らせるのだった。

新吾が去った後も芙美は武史に抱かれるのを拒否していた。武史は芙美の気持ちを尊重して
その気になるまで待つ、と寝室は一緒であっても無理強いはしなかった。
そんなある日、吐き気を覚えた芙美は自分の妊娠を知る。そして、武史と園田家を訪れた時に
武史の居る前で園田から妊娠を指摘されてしまう。
不義は死罪。白装束姿の芙美に、武史以外の男の子供を妊娠したと知らされた梓は、やはり息子と
芙美が男女の仲であったと気づいて詫びるが、芙美は相手が新吾であるとは認めなかった。

妊娠話に武史は動揺するが、死を覚悟する芙美に、「あなたを愛しく想っている、身体を大切に
して丈夫な子供を産みなさい」と告げる。
相手の名前を問い質そうとはしない武史の気持ちが芙美には分からなかった。そんな芙美に、
分からなくてもいい、武史の心の広さに甘えて立派な子供を産んでほしいと梓は言う。

180 名前:あすなろ坂第1部 夜明け編3/4[sage] 投稿日:2006/10/01(日) 00:38:53 ID:???
その頃、会津はことごとく対立していた薩長を本格的に迎え討つと決めた。
武史は芙美に「戦に参加せず、脱藩して会津を捨てる」と宣言する。
「大切なのは無駄死にせずに生き抜く事だ」と言う武史に、芙美は「私は武家の娘であり、藩と
共に戦う」と反発する。
国を捨てるくらいなら死んだ方がマシだと思っていたが、「お腹の子も死んでもいいのか」と
武史に問われ、「卑怯だ」と泣き崩れる。
結局、鳥羽伏見の戦いで幕府軍は敗退。その後も会津の立場は厳しくなっていく。
戦場の新吾を想うあまり、芙美は寝言で「新吾」と口走る。

芙美は男児を出産した。新吾と同じ場所にホクロを持つその子は、武史が『新之介』と名付けた。
自分の子ではないのに芙美に感謝の言葉を述べ、実父が新吾であるのを知っていてなお、新吾に
ちなんだ名前を付ける武史。芙美はその考え方に驚かされながら、新吾に逢って我が子を抱いて
もらいたいと願うのだった。

元号が明治に改められて間もなく、遂に会津は降伏する。
「心の底から武士である新吾は、仮に生き延びても自害したはず」と手を合わせ嘆き哀しむ梓。
芙美は「新吾は新之介を置いて死んだりしない」と言い放つ。
そのやりとりを園田の娘・あけみが聞いていた。出産に立ち会った際、新吾の名を呼ぶ芙美に
疑問を抱いていたあけみは、新之介が武史の実子ではないのを確信する。

あすなろの木に「希望はいつもなくさない、明日こそ幸せになろう」と誓ったのだ、と芙美は胸に
抱いた新之介に語りかける。新吾は生きている、いつか逢えると思いながら。

3.
月日は流れ、新之介は武史と芙美の下ですくすくと成長していた。
武史は大学教授の職に就いており、新之介に対してはまるで本当の親子のように厳しくも愛情深く
接していた。芙美でさえ時折新之介の父親は武史ではないか、と錯覚してしまうほどである。
武史は立派な人だと思う。しかしそれでも、芙美の心を占めるのは新吾なのであった。

長年、武史を想い続けていたあけみは、他人の子を産みながら武史の妻として生活する芙美が
気に入らず、武史と2人きりの時に嫉妬心から新之介の本当の父親は新吾という男だ、と告げる。
武史はあけみに忘れるよう頼み、「もし、新之介に一言でも話したら殺す」と脅した。

181 名前:あすなろ坂第1部 夜明け編4/4[sage] 投稿日:2006/10/01(日) 00:40:09 ID:???
武史が本気だと察したあけみは想いを告白し「抱いて欲しい」と頼むが、武史は「芙美以外の
女性は抱きたくない」と拒絶した。
芙美には敵わないと感じたあけみは、今後は学問に打ち込み医者として父を継ごうと決心する。
そして、芙美や新之介が病気になったら命をかけて直してみせる、と武史に誓うのだった。

最近、芙美が心底明るい表情を見せてくれるようになったと武史は感じ、このまま新吾を忘れて
自分の胸に飛び込んで来てくれるのではないかと期待していた。
しかし、心臓を患い死の淵に居る梓に、「新吾と巡り逢う事が私の生きがい。新吾を忘れる時は
死ぬ時よ」と芙美が語りかけるのを聞いてしまう。
「思い切って芙美を抱きしめてみよう」という決意は早々に崩れてしまった。

後日、芙美は新之介を連れて梓の墓参りをする。目を閉じて新吾を思い浮かべようとした芙美の
瞼に浮かんだのは、何故か武史の顔だった。芙美の心には武史への愛情が芽生えていたのである。
その帰り道、芙美は偶然新吾と再会する。
新吾は人力車の車夫として働いており、既に家庭を持っていた。
芙美から息子は父親にそっくりで首のつけねにホクロがある事、新之介と命名したのは武史で
ある事を聞かされた新吾は、目の前に居る男の子が自分の実の息子だと気づく。
ただ、芙美と新吾はもう別々の道を歩んでいた。2人は「元気で」と別れを告げる。

密かに新吾の行方を探していた武史は、新吾が武士として立派に死ねなかったのを恥じたのか、
姓を橋本に変え、素性を隠して東京に居たと知る。
新吾の生存を知れば、芙美は新之介と共に家を出て行くに違いないと苦悩する武史は、酒の
勢いに任せて有馬家に仕える女中・妙を押し倒してしまう。

帰宅した芙美に、武史が「愛しいからこそ幸せになって欲しい」と新吾の居場所を教える。
いつでも芙美の気持ちを優先する武史に、新吾と再会したが自分はこの家に戻ってきた、今一番
大切なのは武史だと芙美は率直に告白する。結婚して以来初めて結ばれる2人。
芙美は武史の腕の中で、目の前にある幸せを見失う所だったと感じていた。
一方、芙美の留守中武史に抱かれた妙は、「妙を妻にする」と本気で言ったわけではない武史の
言葉に夢を見るのだった。

182 名前:あすなろ坂第2部 朝やけ編1/3[sage] 投稿日:2006/10/01(日) 00:48:14 ID:???
有馬新之介・・・有馬家長男。芙美と新吾の間に生まれる。
有馬史織・・・有馬家長女。武史と妙の間に生まれる。
おきく・・・新之介が出逢う女郎。

1.
武史は新之介に「この世で一番大切なものは愛であり、愛がなければ人は生きていけない」と
説く。あすなろの木を眺めながら涙を流す芙美。心配する新之介に、幸せすぎると涙が出てくる
ものだと話す。芙美は幸せを噛み締めていた。

その直後、有馬家を訪れたあけみは妙が身篭っているのを見抜く。
芙美は「本当ならきちんとしなければいけない」と相手は誰かと尋ねるが、妙は芙美の夫・武史が
そうなのだとは言えずにただ泣くばかりだった。
立場が違いすぎる一方的な恋に苦しむ妙に同情し、芙美は武史に妙の妊娠を相談する。
一時の苦しみに負けて妙と関係を持ってしまったのを深く悔いていた武史は、その相手は自分で
あり、やけになっていたと正直に告白する。打ちのめされる芙美だったが、同時に、ひたすら
新吾だけを愛して、武史の心をきちんと捕まえておかなかった自分が悪かったのだと嘆く。
翌日、武史宛てに置手紙を残した芙美は、新之介を連れて家を出る。

頼った先はあけみの家(園田診療所)だった。経緯を聞いて芙美が身を引くつもりでいるのを
知ったあけみは、武史がどんなに芙美を愛しているかを語り、「好きならくじけるな」と叱咤する。
新之介は診療所を抜け出し近所の子供たちと遊んでいたが、夕暮れになって道に迷った所を
新吾に助けられる。
今日はいつもと違って両親の様子が変だと言う新之介に、新吾は「好きな人を信じろ、男なら
泣いてはいけない」と語り、元気になった新之介を自宅まで送る。
素直に育った我が子を見ながら、新吾は武史に対して胸の内で深く感謝するのだった。

「今回の件は2人で乗り越えよう」と芙美と武史は話し合う。
妙は夢を見られただけでも幸せだったと身を引き、庭師の耕三と夫婦になると決心する。
数ヵ月後、妙は生まれた女の子を芙美に託し、耕三と共に有馬家を離れた。
史織と名付けられたその子を産んだのは母ではない、と新之介も理解する年頃になっていたが、
妹を守り、愛そうと誓う。

183 名前:あすなろ坂第2部 朝やけ編2/3[sage] 投稿日:2006/10/01(日) 00:49:39 ID:???
2.
新之介と史織は互いを思いやるとても仲の良い兄妹に育っていた。
ただ、武史との間に子が出来ないのを気にした芙美は、相談する為にあけみを訪ねる。
診療所の近所を通りがかった新吾を、新之介は史織に親友だと紹介する。
実は新之介の成長を見るのが楽しみで、時々この辺りで逢っていたのだった。

最近身体が疲れやすいと、武史は家族に隠れてあけみの診察を受けていた。
家族の為にも長生きしなければと明るくあけみに語るが、その検査結果は思わしくなかった。
あけみは医学の限界に悩み涙を流す。病名は労咳であり、死を宣告されたようなものだった。
武史はあけみに家族には内緒にするよう口止めする。
もう新之介とは逢わない方が良いと思いながら、つい期待して診療所前に足を運んでしまった
新吾は武史と再会する。新吾は新之介を育ててくれた武史に土下座して感謝する。そして、
会津藩が降伏した時に死を選ばなくて良かったと話す。
武史は、もし自分の身に何かあったら新之介の力になって欲しいと新吾に頼んだ。

残された時間が僅かだと知った武史は、家族に苦労させたくないと仕事に打ち込むようになった。
そんな武史に芙美から嬉しい報告がもたらされる。ついに武史の子を身篭ったのだ。
しかし、その待ちに待った子は生まれなかった。新之介の愛馬・ふぶきが病気で暴れ、ふぶきに
掴まった状態の史織を芙美が助けた際、落馬して流産してしまったのである。
武史の子を産みたかった芙美に、武史は「新之介は自分の子だと思っている」と優しく労わった。
その会話を立ち聞きしてしまった新之介はその事実に衝撃を受けるが、自分の手で射殺した
ふぶきを埋めるのを手伝う武史に、父親はやはりこの人しか居ないと思う。

3.
新之介は文学を好む帝大生、史織は2、3年後には婚約してもおかしくない年頃になった。
史織に対して親しげに声を掛ける新之介の友人・光太郎は、いずれ交際を申し込むつもりだ
と言う。史織が少しずつ自分の手を離れていくのか……と新之介は寂しさを覚える。
仲間内で外出した帰り、自分の肩にもたれかかる史織を見て「一生守ってやりたい」と新之介は
思う。血の繋がりはない武史を父と思うように、史織も妹と思っているはずなのだが、「妹だ」と
必死で自分自身に言い聞かせているのもまた事実だった。

184 名前:あすなろ坂第2部 朝やけ編3/3[sage] 投稿日:2006/10/01(日) 00:50:33 ID:???
ある日、新之介は光太郎達に無理やり連れて行かれた女郎屋・紫楼で、1歳年上の女郎・おきくと
出逢う。おきくは何処となく史織を思い出させる顔立ちをしていた。
今までこの仕事を恥ずかしく不潔だと嫌悪していた新之介だったが、おきくや若くして売られてくる
女性達の境遇を聞かされ不憫に思い始める。
青白くやつれた風情のおきくを放ってはおけなかった。

新之介はおきく目当てで紫楼に通いだす。1度も抱き合う事なく、ただ穏やかな時間を一緒に
過ごしていた。
自分に対する気持ちを知りたい、と告白した新之介へのおきくの返事は「ありがとう」の一言と
微笑みだった。新之介は客の1人でしかないのかと沈んだ表情で紫楼を後にする。
告白は震えるほど嬉しかった。ただ、おきくは夢を見てはいけない立場にあると自戒してひっそり
涙を流していた。
他の客がおきくを抱くのが我慢出来ず、誰にも渡したくないと自覚した新之介は再度おきくの
気持ちを問い質す。そして、本心を知って初めておきくを抱くのだった。

新之介はおきくを身請けして結婚したいと両親に打ち明けた。卑しい仕事に就く女性との結婚は
許さない、と猛反対する芙美を新之介は説得する。同情と愛は違うと言う武史にも思いの丈を
ぶつけた。そのひたむきさを信じ、武史は身請けの金を出してやる。
新之介は大急ぎで紫楼へ向かい、「一緒になろう」とおきくを抱きしめたが、既におきくは病に
蝕まれていた。

酷い喀血で診療所へ運ばれたおきくは、かなり進行した労咳と診断される。しかも身重だった。
おきくの体力ではとても出産に耐えられそうにない。
早く治して新之介の子を産んでほしいと声をかけた芙美に、誰の子かは分からないとおきくは
泣きじゃくった。誰の子か分からない……女にとってこんな悲しい事があるのかと感じる芙美。
おきくの全てを引き受けたのだから、お腹の子の父親は自分以外有り得ないと新之介は優しく語り
かける。芙美は息子のその姿が武史にそっくりだと涙ぐんだ。

おきくは自分の命がもう長くないのを悟っていたが、少しも寂しくはなかった。
人生を諦めていたおきくが新之介に巡り逢い、夢見る事を許される日が来たのだ。
幸せを感じながら、愛する新之介の腕の中でおきくは静かに息を引き取った。

185 名前:あすなろ坂第3部 若葉編1/3[sage] 投稿日:2006/10/01(日) 00:55:47 ID:???
後藤光太郎・・・後藤財閥の跡取りで新之介の友人。史織と婚約する。
後藤珠恵・・・光太郎の妹。新之介へ想いを寄せている。文才あり。

1.
おきくの死から1年、新之介は明るさを失っていた。史織の友人・珠恵は、新之介がきくを未だ
想い続けている様子に望みがないと諦め、ただ見つめるだけでいいと自分に言い聞かせていた。
史織は珠恵の持つ明るさが必要だ、諦めないでほしいと励まし、もし自分に好きな人が居れば、
西洋の女性を見習って自分から好きだと言いたいと語る。
その励ましに勇気付けられた珠恵を見た史織は、自分で言い出したにもかかわらず、もし2人が
愛し合ったら……と想像すると寂しさを覚えるのだった。

外出の帰り道、武史が大量の血を吐いて倒れてしまう。
夫が労咳だと知った芙美は、隠さずに話して欲しかったと嘆き悲しむが、そんなに愛しているなら
何故気づいてやれなかったのか、武史の何処を見ていたのかとあけみは指摘する。
芙美は愛し愛される事ばかり考えていて、病には気づかなかったと情けなさを感じていた。
武史の余命は半年だった。
そんな時、史織は光太郎から結婚を申し込まれる。

少し前から、元庭師の耕三が現れて史織の出生の件で新之介を強請っていた。新之介は1人で
史織を守ろうと金銭を渡して追い払っていたが、このまま強請りに応じていくわけにはいかず、
新吾の居場所を探して逢いに行く。新吾は『会津屋』という店を起こしていた。
新之介は新吾に父と自分、母と妹はそれぞれ血の繋がりがなく、父への恩返しの為に耕三の
件を何とかしたいと相談する。
新吾は「私が君の父親だったら、恩返しなど考えずに人生を精一杯生きて自分の道を持つ男に
なってほしい」と耕三の話を引き受けた。そして、死ぬ時の美しさを求めて生き方を決めるのが
武士の生き方だと語る。

美しく死ぬ為に後悔のない人生を送る。本当に史織を光太郎の所へ行かせて良いのかと思う新之介
だったが、花嫁姿を見せて父を安心させたい、新之介も光太郎との結婚を望んでいるだろう、と
考えた史織は結婚の意思を家族に報告する。
武史は新之介に日本刀を贈った。刀に添えられた「死にざまを考えて生きよ」の言葉に、新之介は
いつ死んでも悔いのない、前向きな生き方をしようと誓う。

186 名前:あすなろ坂第3部 若葉編2/3[sage] 投稿日:2006/10/01(日) 00:57:07 ID:???
新之介と史織は、「離したくない」「離れたくない」という想いを打ち消して結納に臨んでいた。
それからしばらくして、病床の武史は眠るようにしてこの世を去る。

2.
新之介が財産管理を依頼した執事が、自宅以外の有馬家財産を持ち逃げしてしまった。
芙美には「騙される方で良かった」と慰められるが、先の事を考えると今までのような生活は
出来なくなる。母に苦労させたくないと悩む新之介は、文学で生計を立てていけたらと考える。

史織は結婚式への出席をお願いしようと診療所にあけみを訪ね、女性の幸せについて語り合う。
そこへ運ばれてきた急患にあけみは驚く。その人物は史織の生みの母親・妙だった。
手伝いとして手術に立ち会い、妙の病名は子宮ガンで助かる見込みはないと知った史織は、父や
おきくの時を思い出して何故助からない病気があるのかと悲しむ。
誰でもいつか死ぬ。怖いけれども、だからこそ自分達は戦うのだとあけみの弟子に説かれ、史織は
式までの間、人手不足の診療所を手伝いたいと思う。

意識が戻った妙に、妙が産んだ有馬家の長女が手伝いの娘だとコッソリ教えるあけみ。
年のせいか物忘れが酷くなってしまった、と妙は素知らぬ振りする。
あけみが部屋を出て行った後、美しく気立ての良い娘に育てて貰ったと妙は涙ぐんだ。

武史の墓には頻繁に白菊が供えられていた。亡くなった直後だけでなく今でも、自分以外の誰かが
武史を忘れないでいてくれるのを芙美は嬉しく思っていた。
帰りがけ、芙美は白菊を手にした新吾と鉢合わせする。2人は暫くの間並んで歩いた。
その夜、新吾は寝言で芙美の名前を呼ぶ。いつになっても芙美を忘れられないのだった。

あけみを手伝いたい史織は光太郎と意見がぶつかってしまう。説得には全く耳を貸さず、ただ
自分の言う事を聞いていれば良いのだと言う光太郎に、史織の心は寒々としていた。

新之介への想いを綴った珠恵の小説が高評価を受ける。それとは対照的に、新之介の小説の
評価はまだまだであった。
しかも、早く世に出たいが為に焦る新之介は、人間的に未熟だと叱責されてしまう。
珠恵は「あなたの作品が好きだから、くじけずにこれからも書いてほしい」と想いを伝える。
その真剣な眼差しに、新之介は温もりを覚える。

187 名前:あすなろ坂第3部 若葉編3/3[sage] 投稿日:2006/10/01(日) 01:00:24 ID:???
3.
珠恵を可愛いと思うものの、おきくへの想いは残っており、史織への複雑な感情が渦巻いていた。
婚約を勧める史織に、婚約は自然に任せて今は大切に付き合いたいと新之介は言う。
光太郎との間に信頼関係を築けない史織は、考え方について行けないと婚約破棄を申し出た。
史織の意志は固かった。
忘れたいと沈む史織を見て、新之介は「史織を泣かせるなんて許せない」と激しく憤る。
やはり史織を妹以上に見ていたのだと新之介は認めた。
しかし、「ありがとう、兄さま」の言葉に、一生『兄』を貫き通すと誓ったのを思い出す。
たとえ血の繋がりはなくても2人は兄と妹であった。

後藤家が気にするのは世間体だけだった。何とか史織を宥めてほしいと言ってくるが、史織同様、
芙美も後藤家の考え方について行けないと感じていた。
婚約破棄を受け入れる代わりに、新之介と珠恵の交際を含め一切の縁を切るという申し入れを、
「新之介が個人的に誰と付き合おうと口出しはしない」と断った上で芙美は了承する。

史織は婚約解消は後悔していないが、周囲の噂話・陰口に深く傷ついていた。
妙は、史織に世話されている自分は幸せだ、史織なら今にきっと良い事があるだろうと励ます。
生まれてきて良かったと思えるのは史織を産んだ事だけ。娘には幸せになってほしかった。

死の間際、痛みに苦しむ妙は、史織の本当の母親は自分なのだと、「お母さん」と1度でいいから
呼んでほしいと懇願する。
衝撃を受ける史織の様子に、妙は慌てて「つい、夢を口走ってしまった。今のはデタラメだから
忘れてください」と取り消すが、史織は思わず部屋を飛び出してしまう。
妙の目は嘘を言っているようには見えなかった。あけみの反応もそれが真実だと物語っていた。
今まで信じてきた繋がりが大きく揺らいだ。
史織が妙の部屋に戻った時には、妙は既に死亡していた。史織は妙の遺体に縋りついて泣いた。

帰宅した史織を芙美が出迎える。真実を知った事は話さず、自分は生まれてきて良かったのかと
史織は芙美に尋ねた。芙美は生まれてきて悪かった人生などないと諭す。
そこへ、後藤家と縁を切った1人の女として珠恵が訪ねてきた。
珠恵のひたむきさに打たれた新之介は、その気持ちに精一杯応えようと決心する。

188 名前:あすなろ坂第4部 うず潮編1/4[sage] 投稿日:2006/10/01(日) 01:08:11 ID:???
甲野昌平・・・あけみの弟子で園田病院の医師。
綾公路秀・・・帝国軍人。華族。

1.
看護婦を目指して勉学に励む史織は19歳になった。
教師には看護婦よりも医者の道を勧められるが、看護婦としての道を貫き通したいと伝える。
外科ではメスを持つ事、内科では病気を見誤る事を史織は恐れた。診断を下す勇気が出ない。
納得して結婚を決めた相手について行けなかった。それ以来、自分の判断に自信が持てない。
昌平は、「何故怖がって殻に閉じこもろうとするのか。それではいつも1歩退いた生き方しか
出来なくなる」と史織に話す。昌平は史織を気にかけていた。
まるで自分を見ている気がする。昌平自身が1歩退いた生き方しか出来ない人間だった。

新之介は尋常小学校の教師になっていた。妻の珠恵は恋愛小説家として活躍しており、間もなく
最初の子が誕生する予定だった。
ある日、新之介を慕う新吾の娘・ふみがケンカで怪我をする。ふみを背負って自宅まで送る
新之介に、新吾の妻は若い頃の新吾の面影を見る。ふみも、新吾と新之介がよく似ていると言う。
娘の名前は夫が決めた、好きだった人の名前なのだろうと語る新吾の妻に、もしかして新吾は
武士だったのではないかと新之介は尋ねた。
しかし、新吾は過去を一切語らないらしい。『橋本』も新吾が適当に付けた姓だった。
新之介は何か引っかかるものを感じていた。

新之介と新吾、芙美とふみ、会津、武士……いずれも母と新吾が結びついてしまう。
加えて、ふみに指摘された首のつけねのホクロ。新吾も同じ位置にホクロがあった。
そう言えば初めて人力車に乗った時、新之介は父親にそっくりで首のつけねにホクロがある、
新之介と命名したのは父・武史だと母が新吾に伝えていた、と過去の記憶が蘇る。まさか……。
その時、珠恵が産気づく。

早産で一時は危なかったが、昌平の努力の甲斐あって新之介・珠恵夫妻に待望の長男が誕生した。
妻と息子を見つめながら、自分もこうして生まれてきたのだと新之介は父を思い浮かべた。
雄々しい武士のように生きてほしい、父のようにとの願いを込め、新之介は息子を『武雄』と
名付ける。

189 名前:あすなろ坂第4部 うず潮編2/4[sage] 投稿日:2006/10/01(日) 01:09:39 ID:???
2.
日清戦争が終わり、次はロシアだと世間では噂されていた。
園田病院の婦長として仕事に励む史織は、病院での寝泊りが連日続いていた。
維持費がかかる屋敷から小さな民家に転居した為、今は史織個人の部屋さえ取れない状態で、
芙美は史織が家族に遠慮しているのだと思っていた。
仕事に生きると分かっていても、女性1人で生きていくのは寂しいのではないかと心配する。

史織は未婚の自分が『家庭』の雰囲気を壊すのではないかと、まるで別の人種のようだと昌平に
打ち明ける。結婚せず、子も産まず、1人前の女じゃないという焦りを感じていた。
昌平は、1人前の女である前に1人前の人間であるべきで、立派に能力を生かしている史織
自身を誇るべきだと語る。しかし史織は、昌平の前ではただの女でありたかった。

病院前で誤射騒ぎがあり、軍人・綾公路が負傷した。
ミスが発覚するのを防ぐ為、軍医を呼ばずに銃の暴発事故とした綾公路は入院する。
軍人相手に物怖じしない史織を見初めて積極的な態度に出る綾公路を、自信家で自惚れ屋だと
不愉快に思い、「既に心に決めた人が居る」とはねつけた史織だが、意に介さない昌平の様子に
自信をなくしてしまう。

長い時間をかけてある人を好きだと気づいたが、勇気が出ないと恐れる史織に、珠恵は勇気を
持って素直に飛び込めと励ます。かつて、珠恵の恋を励ましたのは史織だった。
「恐れに負けて心を閉ざすのは、自分の心に卑怯だと思わない?」その言葉に告白を決める。
昌平は長年史織を見つめてきて、強くなって欲しいと願っていたが、強くならなければいけない
のは自分の方だと、自分こそ勇気を出して史織へ気持ちを伝えなければと思う。

往診に出ている昌平を待つ間、史織は部下から綾公路への注意を頼まれて病室へ向かう。
その際、「話があるので待っていてほしい」と昌平へ伝言を残しておいた。
もう後には引けないと緊張する史織。
史織がなかなか戻ってこないと綾公路の病室へ向かった昌平は、ズタズタに引き裂かれた
白衣姿の史織と綾公路を発見する。

昌平はショックで気を失った史織を介抱した。気がついた史織に、何もかも忘れてゆっくり眠れと
声を掛けると部屋を出て行く。史織が呼んでも振り返らなかった。

190 名前:あすなろ坂第4部 うず潮編3/4[sage] 投稿日:2006/10/01(日) 01:10:52 ID:???
昌平は泣いていた。その姿を見せれば、まるで悲劇の主人公扱いしているようで余計に傷つけて
しまう。何もなかったように振舞うのが史織の為だと考える。
強く抱きしめてほしかった史織は、昌平が背を向けて去っていってしまったと感じていた。

3.
史織を抱きしめて慰めたいと思っても、男の自分が触れたら嫌な記憶が蘇るかもしれないと
考える昌平。昌平が触れたいと思ってくれるはずがない、昌平に包んでほしいと願うのは贅沢
なのだと考える史織。事件以来、2人は急激によそよそしくなっていった。

退院後、綾公路は有馬家を訪れ、史織を嫁に欲しいと芙美に挨拶した。そして、史織の仕事帰りを
待ち伏せ、自分の妻になればあの時の事は2人にとって良い思い出になると告げる。
綾公路は有馬家の事情を調べていた。新之介は帝大の講師に、珠恵も生活の為ではなく好きな
小説を書く。史織さえその気になれば家族の生活は自分が保証すると言う。

小説家の夢は断念した新之介にもなくしたくない夢はあった。史織の幸せだ。
家の前で見かけた綾公路は冷ややかな目をした男だった。
気に入らないが、もし史織が好きになったのなら兄として祝福してやらなければと思う。
今更ながら嫉妬の感情を覚えるのだった。

忌まわしい思い出を忘れるには、綾公路の言う方法が一番なのかもしれないと思った史織は、
求婚を受けると周囲に伝える。
しかし、浮かない表情の史織が綾公路を好きだとは芙美にはどうしても思えない。
綾公路の「身も心も私のものだ」という発言に、もしや2人の間には何かが起きて史織が結婚に
同意したのではと考えた。
芙美は、自分と武史のように無垢な身体ではなくても気にせず、心が大事だと思ってくれる人が
現れる。いたずらに運命に流されずに納得出来る幸せを掴んで欲しい、と史織に語りかける。

芙美に後押しされた史織が病院へ向かっている頃、昌平と綾公路は史織の件で口論していた。
「行為も立派な愛情表現だ。愛しているから抱いた」と言う綾公路、「無理やり汚したんだ」と
反論する昌平。
侮辱するような綾公路の傲慢な考え方に、「これが俺の愛情表現だ」と昌平は手元のメスを掴んで
綾公路に向かう。

191 名前:あすなろ坂第4部 うず潮編4/4[sage] 投稿日:2006/10/01(日) 01:11:35 ID:???
史織は勇気を出して昌平に告白した。昌平も初めて逢った頃から史織に惹かれていたと伝える。
気持ちを確かめ合う2人。しかし、昌平は「馬鹿だった、遅すぎた」と血の付いたメスを床に落とし、
その奥では脇腹を刺された綾公路が発見される。
幸い命に別状はなく、綾公路としては事を荒立てたくなかったが、既に警察へ通報されてしまって
いた。

「女性に対する意見の食い違いであり、あくまで個人的な事だ」と綾公路は裁判で証言した。
人命を助ける立場の医者でありながら、人を故意に傷つける行為は許されるものではないと、懲役
8年が言い渡された昌平に、史織は何もかもこれからだと伝える。
本当に愛しているなら、自分の心に正直に振る舞うしかない。昌平の心が掴めたのだから、8年
なんて史織にとっては短いものだった。

192 名前:あすなろ坂第5部 向日葵編1/4[sage] 投稿日:2006/10/01(日) 01:29:25 ID:???
有馬武雄・・・新之介と珠恵の長男。
有馬詩絵(うたえ)・・・新之介と珠恵の長女。
有馬忍・・・新之介と珠恵の次女。
秋月精一郎・・・劇作家を目指す青年。

1.
あれから8年。その間、史織は猛勉強して医師の資格を取り、昌平を待ち続けた。
その昌平と逢える日が遂に来た。
昌平の為に身支度する史織は美しかった。武雄・詩絵・忍の3人は史織と共に昌平を出迎える。
昌平に寄り添う史織の姿に、「叔母ちゃんが今日とても綺麗なのは好きだからなんだ」と思う詩絵。

あけみに挨拶に行く途中の列車の中、史織と昌平は暫し抱き合った。しかし、昌平に触れられた
途端8年前の綾公路との記憶が蘇り、史織の身体は恐怖で強張ってしまう。
小児科医長として昌平を受け入れる予定の園田病院では、既に「前科者の医者が来る」との噂が
流れていた。昌平はあけみに迷惑は掛けられないと申し出を断る。
何もかも解決して幸せになれると思っていた。愛しているのに触れられるのが怖いと思い悩む史織。

詩絵は父・新之介や兄・武雄を、いつも怒らず、自分では何1つ出来ない人間だと不満に思っていた。
父より母・珠恵の方が稼ぎが多いと馬鹿にされた詩絵は、級友と取っ組み合いのケンカをする。
ケンカを止めようとし、怪我がないかを心配する兄には「弱い人は嫌い」と文句を言った。
強くなりたい。父や兄のような優しいだけの意気地なしは嫌だった。
父が居るから小説が書ける、父は太陽、母は太陽に向かって咲く向日葵みたいなものだと母は言う。
父も兄も太陽じゃない。詩絵には理解出来なかった。

実業家として成功を収めていた新吾は、私立病院を建設するとして昌平への就職先を世話する。
昌平はありがたくその話を受けた。
まだ恐怖心が残っていた史織に、詩絵がもう昌平を好きではないのかと尋ねる。近頃は綺麗じゃ
ない、綺麗な方が素敵だと言う。昌平の全てを愛しているのに何を怖がっているのだろう、と
史織は思い切って昌平の腕の中に飛び込んだ。
ようやく結ばれた2人の目には涙が浮かんでいた。

193 名前:あすなろ坂第5部 向日葵編2/4[sage] 投稿日:2006/10/01(日) 01:30:46 ID:???
ある日、詩絵と忍は川遊びをしていた。
妹達を武雄が心配そうに見つめる中、忍が足を滑らせて川に落ちてしまった。
詩絵は急いで川に飛び込むが、水は冷たく、忍が身体にしがみつく為に上手く泳げない。
大声で助けを呼んでいた武雄も、2人が流されて行くのを見て、かなづちであるのも構わず勇気を
出して飛び込んだ。必死になって泳ぎ、沈んでいく2人を捕まえると、水を飲みながらも着物の帯を
使って何とか橋の柱に括りつける。
救出が間に合わなかった武雄はそのまま流されてしまう。

武雄はもう目を開ける事なく12歳という短い生涯を閉じた。
「まだ謝ってない! お兄ちゃんは意気地なしじゃない!」と詩絵の泣き叫ぶ声が悲しく響くのだった。

2.
忍はもうすぐ15歳。何があっても挫けないで生きていく。それが、自分を助け、幼くして亡くなった
兄の為に出来る事だと思う。
皆に優しかった兄のように、誰にでも優しい人間でありたいと願っていた。

忍の級友たちは、今や「大和魂の母」と称されるようになった、作家・有馬珠恵の書く「死ぬ事は
美しい」と戦死する軍人の小説を愛読している。
母の作品なら、昔書いていた恋愛小説の方が好きだった。小説にはいつも『優しくて、野心が
なくて、ちょっと気の弱い男性』が登場していた。母は父と自分自身の物語を書いていたのだ。
それが兄が死んで以来、母の書く物はがらりと変わってしまった。何かを守る為に死んでいく
事の美しさ……まるで兄への鎮魂歌のようだった。

母はいつもイライラして八つ当たりをする。詩絵はそれが嫌だった。
小学校教頭の父は真面目一本やり、優しいだけで取り得がない。昔母が言っていた、父が母に
とっての太陽だという話も信じられなかった。太陽はもっと堂々としているものだ。
亡くなった兄は太陽だった。詩絵の為に全てを投げうってくれる人はそうは居ない。もし、そんな
人が現れたら、その人を見つめる向日葵になりたいと思う。
ただ、詩絵にとってあの時の兄以上の人が現れるとは、とても考えられなかった。

194 名前:あすなろ坂第5部 向日葵編3/4[sage] 投稿日:2006/10/01(日) 01:32:36 ID:???
芙美と詩絵は武史の墓参りをする。その際、武史は太陽だったか?と聞かれ、芙美はそうだと
答えた。夫に対する愛情は勿論ある。しかし本当の所、この頃新吾の夢を良く見ていた。
生き続けるとは、自分の心の有り様の様々な色を見せつけられる事なのかもしれない。
その後、2人は以前手放してしまった旧有馬邸を見に行った。あすなろの話を聞いた詩絵は、
「檜になりたがるなんて愚かだわ、その代わり檜より良い木だと思い込めばいいのに」と言う。
いつか屋敷を買い戻してみせると意気込む詩絵は、キラキラと眩しくて太陽のようだった。

珠恵は武雄の死を引きずっていた。武雄が取り残されていくようで、詩絵や忍を愛していても
優しくしてやれずに辛く当たってしまう。
新之介が、武雄が却って悲しむからその分娘達を慈しもう、と言っても取り合わなかった。
愛し合っているはずなのに夫婦の心は離れていく。

知り合った劇作家志望の青年・精一郎の招待を受け、詩絵と忍は芝居を見に行った。
2人は、目元や雰囲気に兄の面影がある精一郎に逢いたかった。
世界中の男の目を惹きつけ、その中で一番愛してくれる人を選びたい。全てを捨ててくれるような
人との愛を望む詩絵。
誰も傷つけず、憎まず、穏やかな愛を育てて幸せな家庭を作りたい忍。
兄や家庭の影から離れられない。それなのに、全く正反対の考え方を持っていた。
『まだ分からないけれど、この気持ちはもしかして……』
これが、詩絵と忍に訪れた初めての恋だった。

3.
英語が苦手な忍は、英語で恋文を書くのが良い方法だと級友から聞く。「好きな人にいつか渡す
つもりで書けばいい」と言われて浮かんだのは精一郎の顔だった。

女優を目指す詩絵は、精一郎が所属する劇団の試験を受けて見事合格した。
ただ、演劇を志す事は偏見を持たれていた時代で、特に女は伝統もなく、人前で芸をするのは
恥さらしだと思う人間も居た。
新之介も「はしたない」と反対する。珠恵は反対こそしなかったが、突き放すような冷たい態度
だった。芙美は女優の道へ進む事の覚悟を確認した。
詩絵は「努力したい。女優の道に飛び込みたい」と決意を固くする。

195 名前:あすなろ坂第5部 向日葵編4/4[sage] 投稿日:2006/10/01(日) 01:35:18 ID:???
初めての役を貰った詩絵は稽古に励んでいた。
精一郎は、他の劇団員から「ろくな本も書けない劇団の役立たず」扱いされるが腹も立てない。
「今に良い作品を書いて見返してやる」ぐらいは言い返してほしかった詩絵に、「自分の力を
信じていれば、他人から何を言われても気にならない。腹を立てるという事は、自分を侮辱する
相手と同じ次元までおりてしまう事だ」と言う。詩絵には理解出来ない。
「侮辱は侮辱。自分の力に自信があれば、尚更相手を許せない」と思う。

精一郎は、英語は苦手だがシェイクスピアの口語訳をしたいと忍に話す。
同じく英語を苦手とする忍も、何か書いてみてはどうかと言われて、以前級友との話題で出た
英語の恋文を書いて精一郎に渡そうと決心する。

いよいよ初舞台。衣装を台無しにされてしまうというハプニングはあったものの、奮起した詩絵は
機転を利かせて難なく演じてみせた。
「侮辱だと思えば悔しくなる。でも、その人達を乗り越えてみせると思えば腹は立たない」と精一郎の
言った事を理解した詩絵は、「あなたはきっと立派な作品を作ると信じる。だから、私が立派な女優に
なる道のりを見ていてほしい」と精一郎に伝えた。
そのやりとりを立ち聞きして詩絵も精一郎に惹かれているのを知った忍は、姉と争いたくないと
恋文を破り捨てる。

精一郎から初舞台のお祝いを貰った詩絵は、それをいつも控えめで何でも譲ってくれる忍に
あげたいと思っていた。
ただ、譲れないものが1つだけある。もし同じ人を愛してしまったら、それだけは譲れない。
詩絵はきっと全てを賭けて恋をするのだろう、と言う精一郎に、自分の為に全てを賭けて欲しいと
告白する。
詩絵が全てを賭けるなら、自分も全てを賭ける覚悟で答えなければならない。まだその覚悟は
ないが、答える時は全てを賭けるだろう。
これが精一郎の返事だった。



201 名前:あすなろ坂第6部 風花編1/4[sage] 投稿日:2006/10/01(日) 11:18:06 ID:???
源宣匠(ウォン・ソンジョン)・・・朝鮮人。新吾の会社『橋本運輸』の専務。

1.
時代は大正に入っていた。
劇場への詩絵の送り迎えは源がしている。源は初舞台以来詩絵を想い続けており、舞台がある時は
毎日最前列で詩絵への拍手を送っていた。
劇団の仲間からは恋人だと噂されていたが、詩絵の愛は変わらずに精一郎へと向けられていた。

精一郎は詩絵を主人公とした作品を書いた。演出家からは、面白いが主人公が個性的過ぎるから
書き直すようにとの指示を受ける。
詩絵は上手くはなったが、まだ芸の幅がない。詩絵への個人的感情を捨てろ、と言われて精一郎は
作品を取り下げる。捨てろと他人から言われて、初めて詩絵への強い感情に気づいたのだった。

満州の奉天にある日本人学校校長就任の話が来た新之介は、家族に相談せずにその話を受ける。
珠恵は日本を離れたくないと拒否し、思わず小説の稼ぎで生活して行けるのにと言ってしまう。
新之介はそれは絶対に嫌だった。
詩絵も女優としてこれからが勝負だと言って同行を嫌がり、結局、満州へは新之介1人で行く事に
した。満州へ同行すると言った忍には、家族の面倒を見てほしいと日本に残るよう頼んだ。
新之介は忍に「お前は優しい子だが、傷ついて強くなる人間も居る。傷つく事を恐れないで生きて
ほしい」と告げる。父自身を言っているのだと思う忍。

芙美は新吾を訪ねて、新之介の満州行きの話をした。見送りに行ってやってほしいという芙美の
頼みを、新吾は武史の位牌が見送るべきだと断った。
勝手な事をした、と部屋を出て行こうとする芙美の背中に、新吾は手を伸ばしかけた。
『ほんの少し手を伸ばせば……私達の人生は……』しかし、そのまま見送る。
芙美は芙美で、一体いつになったら夢から覚め、安らかな気持ちになるのだろうかと思っていた。
新之介は家族4人に見送られて、船で満州へ向かった。芙美の頼みを断った新吾も、少し離れた
場所でひっそり新之介を見送っていた。

202 名前:あすなろ坂第6部 風花編2/4[sage] 投稿日:2006/10/01(日) 11:19:08 ID:???
精一郎は「自由な立場で書きたい物を書く」と、身の振り方も決めずに劇団をやめた。
ついて行きたいと頼む詩絵に、女優として大切な時期だからと劇団に残るよう説得するが、詩絵は
それなら死ぬと言って聞こうとしなかった。
精一郎は「一緒に生きよう」と詩絵を抱きしめ、2人は口づけた。

その2人の姿を忍が目撃していた。その日がいつか来るのは分かっていたはずなのに……と、
泣きながらその場を離れ、1人で姉の幸せを祈る忍。
精一郎と一緒にやめると報告しに行く途中、詩絵は忍の荷物が落ちているのに気づく。
その中に帳面があり、苦しい恋に悩む忍の想いが綴られていた。
忍の太陽も精一郎だった。自分が妹を苦しめているのかと思うと、まるで心に刃を刺されている
ようだ。それでも、詩絵は精一郎を愛し続けて行きたかった。

詩絵と精一郎は色々劇場を訪ねてみるが、詩絵だけなら大歓迎、精一郎の脚本の内容が良くない
など、良い返事は返ってこなかった。そんな時、銀座に大劇場『20世紀劇場』が建てられた。
それは源個人の資産で建てたもので、2人は劇場所属第1号の女優と作家になる。
源は詩絵の喜ぶ姿、大きく羽ばたく姿を見たかった。
そして、いつか詩絵を振り向かせて見せると思うのだった。

2.
20世紀劇場では作/演出・秋月精一郎、主演・有馬詩絵で舞台が行われていた。
第2幕の用意がされる中、憲兵より中止命令が下る。内容に軍人への侮辱があったというのが
その理由だった。
劇場の最高責任者である源は、客を待たせてはいけないとそのまま舞台の続行を決める。
憲兵は「スパイも多く、外国人は油断出来ない」と、源の生い立ちをネタに軍に楯突くなと言うが、
源は「橋本社長(新吾)には恩があるが、あなたたちには関係ない」と追い返した。
第2幕が始まった。源は詩絵の熱演を見ながら「逆境に強く、なずなのようだ」と忍に語る。

舞台は成功した。脚本が良かったからだと喜ぶ詩絵に、皆が頑張った、主演女優として皆にお礼を
言わないと、と精一郎は言う。詩絵が褒めてもらいたいのは精一郎だけなのだが、舞台にはチーム
ワークが大切だと、公私混同を避けたい精一郎は素っ気無い態度を取る。
詩絵はそんな恋人の態度に不満を覚えていた。早く、結婚しようと言ってほしかった。

203 名前:あすなろ坂第6部 風花編3/4[sage] 投稿日:2006/10/01(日) 11:20:03 ID:???
戦記物を連載中の珠恵は、〆切りが3日も過ぎてるのに一向に筆が進まない。戦記物はもう書きたく
なかった。新之介が満州へ発ってからというもの、空虚感で一杯だった。
芙美が若い頃の新之介の着物を仕立て直している。それは新之介に良く似合っていた着物だった。
新之介と巡り逢えただけでも生まれてきて良かった、と思っていたあの頃の気持ちは何処へ行って
しまったのか。1人で逝った武雄に申し訳ない、と心を閉ざして愛を育てていくのを忘れていた。
珠恵は新之介に逢って、もう1度やり直したかった。しかし、新之介から便りは来なかった。

新之介は世の中を憂い、満州という土地で一体教育者として何が出来るのかと悩んだが、やはり
全力を尽くし、心を尽くす……それしかない。そして、珠恵に手紙を書き、意地やこだわりを捨てて
歩み寄ろうと決めた。

軍より舞台の上演中止命令が出された。悔しがる精一郎に詩絵は結婚してほしいと頼むが、まだ
自分は劇作家として力不足だと言われてしまう。敵役として軍人を扱わなければ演じられる、と
妥協案を挙げる詩絵に、精一郎は一切応じない。
結局、源の手腕で中止命令は撤回されたが、意地の張り合いで2人の仲は修復されなかった。

詩絵と精一郎を仲直りさせたい忍は精一郎の住まいを訪れる。酔って荒れる精一郎が突然忍に
抱きついた。精一郎への想いはまだ忍の心からは消えておらず、いけないと思いながらもほんの
一時だけ許してほしい、と流されるように抱き合うのだった。

3.
珠恵は意地を張るのをやめ、新之介の居る満州へ旅立った。
やはり女は愛の為に仕事を捨ててしまうと残念がる珠恵の担当編集者に、詩絵は結婚しても
仕事はやめないと言い切る。精一郎との結婚を夢見る詩絵。

詩絵と精一郎は相変わらずギクシャクしていた。
同僚の結婚パーティの席で、精一郎は詩絵に、恋人関係を解消して女優と脚本家の関係で
いようと告げる。愛したのは女優としてであり、女としてではなかったと気づいたのだ。
精一郎の謝罪に、詩絵は女優として堂々と演じなければ、と微笑んで別れを告げた。
詩絵にとって精一郎は全てだった。死ねるものなら死にたかった。しかし、死ぬ気力もなかった。

204 名前:あすなろ坂第6部 風花編4/4[sage] 投稿日:2006/10/01(日) 11:21:06 ID:???
翌日。いつも通り迎えに来た源の前で、詩絵は無理にはしゃいでみせる。
昨日の事は夢だったのかもしれないと一縷の望みに賭けていたが、やはり夢ではない。
精一郎はもう自分を女優としてしか見ていなかった。

精一郎はいつの頃からか、忍と居ると心が安らぐようになった。
抱き合った一夜の事には全く触れようとはせず、精一郎を責めなかった。それがいじらしく、
女として見つめるようになっていた。そして、結婚を申し込んだ。
忍ははっきりした返答をしなかった。

詩絵と精一郎の別れは周囲で知られるようになった。噂では、スターになった詩絵が精一郎を
捨てた事になっていた。詩絵の耳にもその噂は入っていたが、それでも良かった。
明るく華やかに振る舞っていたい。傷ついていないと思わせたい。
寂しくても、安心してもらう事が最後に残された精一郎への愛の形だった。

忍は詩絵の気持ちを知っていながら、精一郎の愛を受け入れるわけにはいかないと両親の居る
満州へ行こうと考えていた。
それを知った精一郎は、忍に詩絵の件は2人で一緒に乗り越えて行きたいと話す。
詩絵はその会話を立ち聞きしていた。心から2人に幸せになってほしいと願い、髪を短く切った。

詩絵は源が自分に求婚するよう仕向け、見事成功する。
「やっと想いが通じたのよ」と婚約指輪を買いに宝石店へ向かう詩絵と源。
その本当に嬉しそうな詩絵の笑顔に、源を本気で想っているのだと忍は姉の幸せを喜んだ。

全て、忍と精一郎を安心させる為だと見抜いた上で、源は詩絵の芝居に付き合ってくれていた。
何故、何もかも見抜いてて付き合ってくれるのかと尋ねる詩絵に、源は「愛しているからだ」と
キッパリ答えた。
精一杯無理したけれど、もうダメ……と素直に泣く詩絵を源は優しく見つめていた。

205 名前:あすなろ坂第7部 積乱雲編1/5[sage] 投稿日:2006/10/01(日) 11:30:57 ID:???
秋月(有馬)みどり・・・精一郎と忍の長女。
サーシャ・・・ロシア人の孤児。さくらの家で下働きをしている。
(有馬)さくら・・・精一郎・忍夫妻が満州で身を寄せた家族の娘。

1.
大正8年、女優・松井須磨子が愛人を追って自殺した。取材を受けた詩絵は、愛する人が
死亡したらどうするかの問いに無言で返した。夫・源宣匠を愛しているが、全てではない。
愛する事と後を追って死ぬ事は別だ。
秋月家を訪ねると、精一郎は身重の忍を残して反政府集会へ行っていた。政府を攻撃する作品
ばかり書くせいで仕事は来なかったが、忍は主義主張を貫く夫を見ているだけで幸せだった。
詩絵は女優、夫は実業界の実力者と認められているが、詩絵は忍が羨ましかった。
精一郎にもしもの事があれば、忍は後を追うかもしれない。
詩絵は夫が死んでも強く生きていくだろう。愛が足りないのだろうか……。

庭に植えたあすなろを利用して、夏に生まれる忍の子の為に芙美は離れの部屋でお守りを作って
いた。そこへ、集会中に警察に踏み込まれて怪我を負った精一郎が逃げてくる。
精一郎は、国内に居れば罪人にされてしまう、と仲間の居るソビエトへの亡命を考えていた。
忍は足手まといだから日本に残すと言う精一郎に詩絵は憤る。
忍と子供の未来を守りたい。自分の事は忘れて幸せになってほしい。これが精一郎の望みだった。
詩絵は精一郎と源の会話を聞き、本心を知る。
男には男の愛し方があるように、女には女の愛し方がある。詩絵と芙美はお金とありったけの
金製品、それからあすなろのお守りと詩絵の出国証明書を用意し、忍を連れて港へ急いだ。

満州行きの船の乗客に忍を見つけて驚く源に、「厳しければ厳しいほど女の愛は育つ。私は
恵まれすぎて不幸かもしれない。でも、世界中で一番あなたを愛している」と詩絵が告げる。
忍の生きる場所は精一郎の傍しかなかった。精一郎は忍の決意を知り、2人は抱き合った。

奉天では、新之介と珠恵が監視の目を盗んで精一郎と忍に逢いに行った。新之介は父の形見である
日本刀を手渡し、『武士の生き方』を教えた。子供が男の子なら武士の生き方、女の子なら武士の
妻の生き方を教えると言って、精一郎達は馬車に乗り込んだ。
そして、緑萌える夏の満州で2人の間に長女・みどりが誕生する。

206 名前:あすなろ坂第7部 積乱雲編2/5[sage] 投稿日:2006/10/01(日) 11:31:32 ID:???
2.
翌年3月。精一郎は町で国境越えの相談をする。その際、郵便局で新之介宛ての手紙を出した。
手紙には「娘が生まれてみどりと名付けた」と書いた。しかし、追っ手はすぐ傍まで迫っていた。

忍は胸に抱いた娘の首にあすなろのお守りを掛け、あすなろの木の話をする。
仲良くなった孤児のサーシャも忍の傍らに居た。
自分達との別れを惜しむサーシャに、精一郎は刀を見せた。サーシャも母親に貰った金の指輪を
見せる。ロシア貴族の母親は、捕まる(ロシア革命?)前にサーシャを列車に乗せて逃がした。
サーシャは当てもなく1人歩き続けて、今の主人に拾われたのであった。
生活は楽ではなく、毎日こき使われて辛い思いをしているサーシャ。
精一郎は、「どれだけ耐えられるか試されている。試されれば試されるほど強くなっていける。
辛い時は、いつも『何かが見ている』と思えば乗り越えられる」と話す。
追っ手がやって来たのに気づいた精一郎と忍は、サーシャに別れを告げて橇で裏口から逃げる。
銃声が聞こえ、サーシャは夢中で吹雪の中を追いかけた。

馬が撃たれて橇が使えなくなった為に歩いて逃げるが、もうこの先は忍とみどりを巻き込めない、
と精一郎は1人先を急ぐ。
忍は追いかけてきたサーシャにみどりを託すと、刀を持って精一郎を追った。そして、精一郎を
助けようと憲兵に斬りかかり、撃たれてしまう。大人数相手では抵抗しても敵わず、精一郎も
銃弾を浴びる。精一郎と忍は寄り添い、みどりを想いながら雪の上で絶命した。
郵便局で出した新之介宛ての手紙がその場で破かれ、風に舞う。
一部始終を目撃していたサーシャは、何も分からず笑顔を見せる生後7ヶ月のみどりを抱え、
「みどりは僕が守る」と幼心に誓うのだった。

精一郎と忍の死は、奉天の新之介と珠恵にも知らされた。もう子供が生まれているはずだ、と
知人や軍関係者を訪ねるが、一向に行方は分からない。
新之介は絶対に孫を探し出して幸せにしてやりたかった。
芙美は武史の墓前で泣いた。忍の子供に逢えたら、忍がどんなに優しい娘だったかを教えて
やらなければ。性別すら分からないその子に巡り逢えるまでは死ねなかった。

207 名前:あすなろ坂第7部 積乱雲編3/5[sage] 投稿日:2006/10/01(日) 11:32:23 ID:???
みどりにはサーシャしか居ない。サーシャにはみどりと、精一郎・忍の心がある。サーシャは
みどりの為なら何でもする、と働いた。
サーシャは10歳、みどりは4歳になった。日本刀はさくらの母親に売られ、みどりのお守りも、
さくらのワガママで取り上げられてしまうが、代わりにサーシャは自分の指輪をみどりにあげた。
精一郎の残した言葉を胸に、貧しい暮らしの中でもサーシャとみどりは深い絆で結ばれていく。

3.
詩絵主演の舞台初日。詩絵の楽屋に訪れていた史織が、夫婦仲が良すぎて子供が出来ないのでは、
と冗談めかして言う。史織自身、子宝には恵まれなかった。
精一郎・忍の子は今も安否が分からず、詩絵が産まないと有馬家の血が絶えてしまうと長女の
責任を感じている。源は詩絵さえ居ればいいと言うが、詩絵は夫の子が欲しかった。

若くして逝った孫達、忍の子は行方不明、自分が何の為に生き続けるのか芙美には分からない。
武史の墓前で涙を流す芙美に新吾が声をかけた。
「まだこの世でする事が残っているから、神様が生かしてくれるのだろう」との新吾の言葉に、
多少気が晴れる。
昔は芙美が大人ぶっていたが、新吾はいつの間にかずっと大人になっていた。
2人は暫し遠い想い出の中に居た。兄妹のように戯れ、そして愛し合った懐かしい日々。
「もし、もう1度人生がやり直せるなら、何処からやり直してみたい? それから後に起こった
事は、全て2度と巡り逢えない運命だとしたら」新吾が質問する。
人生をやり直したら、武史との出逢いも想い出もなくなってしまう。
芙美は「やっぱりやり直せない」と答える。
「過ぎてしまえばただ夢のような月日でも、その時大切な瞬間がある。人生はやり直せるものじゃ
ない。だから、生きていく意味がある。死ぬ時になって初めて分かるものかもしれない。最期の
瞬間、生きてきて良かったと思えれば、自分の人生は生きる意味があった」
新吾は同意してそう語った。
芙美はこれから詩絵の舞台を見に行く予定だった。新吾も近い内に行くと約束して別れようとした
その矢先、地響きと大きな揺れに襲われる。関東大震災だった。

辺り一面火の海の中、足を痛めた芙美を新吾が抱えて川へ逃げる。川では満員状態の小舟が
出発しようとしていた。新吾は芙美を舟に乗せた。

208 名前:あすなろ坂第7部 積乱雲編4/5[sage] 投稿日:2006/10/01(日) 11:33:06 ID:???
いつも芙美を守るばかりの新吾は、「そうしたくて生きてきたんだからいい」と舟を押した。
芙美の目の前で橋が崩れ、火の中に新吾は消える。これが新吾の最期だった。

助けを求める子供が居た。その子を舟に乗せ、代わりに芙美が川の中へと入る。
新吾に守って貰った命だが、もういい。充分愛し愛されてこれ以上生きても何の意味もない。
……しかし、死ねなかった。新吾の言葉を思い出して、生きていく意味を探そうと思い始める。

救助活動をする源や詩絵に、朝鮮人達が暴行されていると連絡が入る。
群集心理は理屈では止められない、と仲間の所へ向かおうとする源を詩絵が引き止めた。
「卑怯者、臆病者になれと言うのか」と言う源に詩絵は「なってください、私の為に」と答えた。
源は「エゴイスト」と言って外へ飛び出していった。
愛する人を失いたくないというのは女の本能だと史織に慰められるが、信じ方が足りなかった、
自分1人が愛されたがっていたと詩絵は今までの自分を見つめていた。
これからでも遅くない、信じればいいと史織は励ました。

避難勧告が出た為に建物から脱出する最中、子供を助けて柱の下敷きになる詩絵。
脊髄を強打して半身不随になってしまう。
「たとえどんな身体になっても詩絵は詩絵だ。エゴイストでも気が強くても、そんな詩絵の全てを
愛したんだから」まだ意識の戻らない詩絵を見守りながら源が言う。
皆いつかは死ぬ。それなら、自分の残した血の行方を見届けよう。その傍で芙美はそう決心した。

4.
初秋。あかぎれで痛々しいみどりの手を取り、サーシャは「ダラゴーイ」と言った。小さい頃、
サーシャが怪我したり泣いたりした時に、母親がそう言って撫でてくれたのだった。顔は忘れて
しまったが、この言葉だけは覚えている。両親の記憶がないみどりには羨ましかった。
名前はサーシャも知らなかったし、さくらの母親には思い出したくもないと言われてしまった。
強く優しく温かいサーシャ。みどりとサーシャは、みどりが15歳になったら結婚する約束をした。
2人で理想の温かい家庭を想像する。15歳まであと6年だった。

さくらの母親は体調が悪く、いつも当り散らしていた。さくらは母親や貧しい生活の愚痴を言い、
「本当の母親がきっと迎えに来てくれる」と思い込むようになった。

209 名前:あすなろ坂第7部 積乱雲編5/5[sage] 投稿日:2006/10/01(日) 11:33:37 ID:???
サーシャは我慢出来る人間になると強くなれると言う。強くならなくていいから幸せになりたい
みどり。幸せになりたいと思えるだけいい、本当に絶望したら幸せになりたいという望みすら
なくしてしまうと語るサーシャを見て、この人にはきっとそういう時期があったのだとみどりは
感じ取った。我慢してサーシャのように強くなりたい、そして幸せになりたかった。

さくらの母親が死亡した。身寄りのない3人は全員、娼家・紅香楼へ下働きとして引き取られる。
サーシャは力仕事、みどりとさくらは掃除や洗濯などの仕事を受け持って懸命に働いた。
それから4年。みどりはあと2年で15歳になる。みどりが大人になってしまう前に、みどりの人生を
支える力を持たなくてはとサーシャは考えていた。
働いて金を貯めたいとサーシャは紅香楼の女将に相談するも、女将の返事は、給料を貰えるように
なるまであと2年は待て、だった。
女将はせっかく育てたみどり達をみすみす手放してなるものかと思っていたのだ。

新之介は骨董屋で何年も探していた形見の刀を発見する。出所を調べさせ、みどり達が住んだ家に
辿り着いた。近所で、住んでいた子供達は娼家へ引き取られたとの手がかりを得る。
無事なら13歳のはず。新之介と珠恵は先を急いだ。

さくらが腹痛を起こし苦しんでいた。みどりは医者を呼ぶよう頼むが、客を取るなら呼んでやると
女将に言われてしまう。サーシャは仕事で留守の為、女将は丁度いい機会だと思っていた。
客を取れば食べ物や着物を奮発すると言われてもどうしても嫌だったみどりは、サーシャに貰った
指輪を渡してどうにか医者を呼ぶ。しかし、盲腸炎だと判明して手術が必要だと知った女将は、
冗談じゃないと言い出した。痛がるさくらを見て、みどりは客を取るからと手術をお願いする。

着物に着替えたみどりは、客の待つ部屋へ連れて行かれた。震えが止まらない。
客に抱き寄せられて、思わずサーシャを呼んだ。サーシャがドアを蹴破って部屋へ入ってくる。
仕事から戻ってすぐにみどりの話を聞かされ、急いで駆けつけたのだった。
サーシャは客を殴り、2人は手に手を取って逃走する。この件はすぐ周辺の店へ伝えられた。
「足抜けしたらどういう目に遭うか見せてやる」
2人を連れ戻そうと、大人達は手分けして後を追った。

210 名前:あすなろ坂第8部 春雷編1/5[sage] 投稿日:2006/10/01(日) 11:43:56 ID:???
加納樹一郎・・・海軍中尉。みどりとさくらの級友・信子の兄。

1.
新之介と珠恵は、紅香楼の女将にみどり達のどちらかが孫だと話す。どちらが孫でも大金を
ふんだくれる損な話ではないと考える女将。
新之介達は入院中のさくらを訪れる。さくらはあすなろのお守りを首に掛けていた。
精一郎・忍のどちらにも似ていないと新之介は内心思うが、確かにそのお守りは芙美が忍に
持たせた物だった。
お守りはさくらが小さい頃から持っていたと分かり、新之介は「君は私達の孫なんだよ」と告げる。
さくらは、「ずっと待ってた」と珠恵と抱き合って泣いた。

橋の下に隠れていたみどりとサーシャは追っ手に見つかってしまった。幸せになんかなれないと
弱音を吐くみどりに、サーシャは夢を逃さないように心の中で育て続けよう、と励ます。
通りかかった小舟にみどりを乗せて、サーシャは追っ手の大人達に抵抗するが、揉み合った挙句
撃たれてしまう。そのまま川に落ちるサーシャ。みどりは紅香楼へ連れ戻された。

女将に折檻された後、みどりは「川下で白人の死体が上がったらしい」と客が話すのを聞く。
さくらから他の2人の話を聞いた新之介は、女将に掛け合ってみどりも一緒に引き取ると話を
つける。サーシャの生存を信じるみどりに、自分を誤魔化してはいけない、サーシャは死んだと
親しくする娼婦が言い聞かせる。サーシャへの想いが一気に込み上げ、みどりは泣き崩れた。

仕事の都合で新之介達は日本へ戻る事になり、みどりは有馬家の養女として歓迎される。
みどりとさくらは楽しい学校生活を送り、特にみどりは美人で成績優秀、そして奥ゆかしいと
級友の間で評判だった。さくらはみどりが褒められるのは悪い気はしなかったが、みどりが
幸せになったのは自分のお陰であり、常に1歩下がっているべきだと感じていた。

芙美はみどりに、あすなろの木や有馬家に嫁入りしてから今までの出来事を話して聞かせた。
そして、夢は叶うことではなく持つことが大切であり、人を好きになるなら「この人の為なら強く
生きられる」そう思える人を選びなさい、と教える。
サーシャと一緒に描いた夢を育てていく、「明日こそ」という気持ちを忘れずに生きていこうと
胸に刻むみどり。

211 名前:あすなろ坂第8部 春雷編2/5[sage] 投稿日:2006/10/01(日) 11:44:41 ID:???
みどり達は宿題で絵を描いていた。みどりが題材に選んだのは、サーシャと夢見た小さな家。
上手く描けないさくらが、みどりの絵の出来がいいから欲しいと言い出す。みどりは勿論断った。
さくらは恩知らずだ何だと騒ぎ立て、無理に奪おうとしたせいで絵が破れてしまう。
「絵の1枚や2枚どうだっていうのよ。あたしのお陰で助かったくせに」とさくらは謝りもしない。
みどりも限界だった。さくらが盲腸になった時の一連の出来事を話し、サーシャがあんな目に
遭ったのはさくらのせいだ、と非難するが、さくらの表情を見て我に返る。
一生話すまいと決めたのに、と怒りに任せて言ってしまったのを後悔する。

寝込んでしまったみどりは、熱にうなされながらサーシャを呼ぶ。
サーシャとの夢が破れ、サーシャがくれた金の指輪も手放してしまった。
「泣くんじゃないよ、これを代わりにあげるから」泣いているみどりにサーシャが指輪を渡す。
何故泣いているのだろう、何の代わりに指輪をくれたのだろう。
「頂戴」とさくらがみどりのお守りを取り上げ、自分の物にしてしまった。あの時の記憶が蘇る。
みどりは目を覚ました。あれは、みどりが身につけていたお守りだった。では、本当の娘は……。
しかし、これ以上さくらを傷つけてはいけないと秘密にしておくのだった。

2.
みどりはさくら、級友の信子と喫茶店で恋愛や結婚について語り合う。15歳という年齢は、早い
人は婚約を決める年頃である。みどりは結婚するつもりはない。今でもサーシャを想っていた。
信子が偶然外を通りがかった兄・樹一郎を呼び止め、みどり達に紹介する。

枕元で小説の読み聞かせをするみどりに、芙美は「あなたが忍の子なのね」と言う。以前から、
みどりの仕草や表情が忍に重なると思っていた。こうして、本を読む時の声もそっくりだ。
珠恵は小説家で精一郎は脚本家、そして忍も文学が好きだった。やはり血は争えない。
「誰かの犠牲になるつもりで自分の心に酔っているのだとしたら、決意が崩れる時が来る」と
芙美が忠告すると、みどりは「自分で決めた時点で誰の為でもなく自分自身の道だ」と答えた。
芙美はみどりの考えに納得して、その件は2人の秘密にした。

212 名前:あすなろ坂第8部 春雷編3/5[sage] 投稿日:2006/10/01(日) 11:45:22 ID:???
新之介もまた、みどりを見ると忍を思い出した。仕草や人に接する態度、雰囲気が良く似ている。
両方とも可愛い、2人の孫が出来たと思って慈しもうと思う新之介であった。

今や製鉄会社と運輸会社社長である源は、稼ぎ頭の軍需部門閉鎖を決めるが、それを考え直すよう
関係者に説得される。源は自社工場で銃や弾丸を作って軍に協力するのに嫌気がさしていた。
みどりは、朝鮮半島での日本軍に関する新聞記事を読む。孤児で小さい頃に日本へ来た源には、
半島の思い出は何もない。それでも自分の故郷なのだと源はみどりの前で涙を流す。
故郷に帰りたいかと尋ねるみどりに、源は「帰りたいとは思うが、愛する人の居る所が一生大切な
場所だ。詩絵の居る場所が俺の天国だ」と笑った。

みどりの方が皆に気に入られていると焦るさくらは、みどりが誰かを愛せば、サーシャを忘れて
自分の負い目もなくなるだろうと考えた。
そこで、みどりが家で樹一郎の話ばかりすると言いふらして、交際話が持ち上がるよう仕向ける。
樹一郎もみどりに一目惚れしたらしく、当のみどりを差し置いて周囲が勝手に盛り上がっていた。
そんな時、みどりと勘違いした芙美が「誰かに有馬家の本当の娘はみどりだと言っておきたい」と
さくらに話す。さくらは真実を確認するのが怖くて余計に焦るのだった。

とんとん拍子に話が進み、樹一郎は新之介達が同席した上でみどりに求婚する。
みどりは樹一郎をいい人だと思うが、結婚そのものを考えたことがないと返答した。有馬家での
樹一郎の評判は上々で、堅苦しく考えずにお付き合いしたらいいと勧められる。
憧れの人の婚約が決まり、自分ばかり惨めだと僻んださくらは、みどりは娼家に売られた身で、
客を取ったこともあると信子に話した。信子は樹一郎には到底話せないと悩み、級友に相談する。
ところが、みどりがそうならばさくらもそうなのでは、という話に発展してしまう。
その噂を知ったさくらは、みどりの仕業だと思い込み、学校帰りの道でみどりを責めた。
みどりは否定し、さくらは自分自身を不幸だと思い過ぎると指摘する。
それに対してさくらは、「幸せを横取りするな」「いつも周りの人間を不幸にする」「みどりを
守る為にサーシャは死んだ」「家から出て行け」と一方的に捲くし立てて走り去った。

213 名前:あすなろ坂第8部 春雷編4/5[sage] 投稿日:2006/10/01(日) 11:46:07 ID:???
その夜、みどりは家に帰りたくないと雨の中を1人ほっつき歩き、警察に保護される。
みどりを迎えに来た源は何も聞かず、「皆がみどりを大切に思っている。それを忘れたら皆が
寂しい思いをする」と言った。みどりはその言葉に救われ、もうこんなことはしないと答えた。
屋敷の前でうずくまる男が居り、何事かと源が自動車から降りて声を掛ける。名前を呼ばれ、男の
目的に気づいた時は既に遅かった。軍需部門の閉鎖決定以来、源への脅迫が続き、身辺には特に
気をつける必要があったのだ。「国賊め」の声と共に銃声が響く。
自動車から出たみどりに「出るな! 隠れて!」と源は叫び、みどりの目の前で銃弾に倒れる。
致命傷を負った源は詩絵に身体を支えられながら、最後に「愛してる、詩絵」と呟いた。
愛する夫を失って泣き叫ぶ詩絵の姿を見て、みどりの頭の中で昼間さくらが言った一言が響く。
「あなたはいつも周りの人間を不幸にするのよ」

3.
みどりはもうすぐ学校を卒業する。級友達の話題は、やはり卒業後の進路である。
信子は樹一郎のみどりを想う気持ちは良く理解しているが、満州の噂に拘っており、2人の
結婚話はなかったことにしたかった。
みどりは誰とも結婚出来ないと思っていた。中国やアメリカとゴタゴタが起こりそうな昨今、誰と
結婚してもその相手は戦死してしまう気がするのだ。
サーシャも源もみどりの為に死んだ。もし誰かを愛したら、その人もまたみどりを守る為に死んで
しまう気がする。
ロシア文学と朝鮮の歴史を一生の勉強にして、サーシャと源の為だけに生きていくつもりだった。

演出家としてバリバリ働く詩絵は、とても生き生きした女性に見える。
詩絵にとって源は生きがいだったはずなのに、何故だろうとみどりには不思議だった。
夫は精一杯生きた。その人生を充実させた何分の1かは詩絵自身だと自負している。
精一杯愛し愛され、2人の人生は何倍にも光り輝いた。今の詩絵は夫が残した遺産であり、詩絵は
遺産を磨いて生き生きと光り輝く事が夫の価値を高める、と断言する詩絵。
話を聞いて、愛とは何て強いものなのだろうとみどりは感じる。
誰かを命がけで愛してみたい、生きる為の愛を知りたいという気持ちが湧き起こるのだった。

214 名前:あすなろ坂第8部 春雷編5/5[sage] 投稿日:2006/10/01(日) 11:46:44 ID:???
学問に生きようと考えたみどりは大学を受験するが、残念ながら結果は不合格だった。
第1歩からつまづいて、自分の生きていく意味は何処にあるのかと悩む。
さくらは縁談で出逢った、男爵家の跡取りでノーベル賞を目指す学者・宮園に人生を賭ける。

卒業式の日、樹一郎が事故で危篤状態になる。みどりは手を握って必死に声をかけた。
やがて峠は過ぎ、樹一郎が目を覚ます。みどりの声が引き戻したのである。
自分が誰かの支えになれたと喜びを覚えるみどり。
信子がみどりの満州時代の噂、今も想い続けるロシア人の男の子が居る事などを話すが、樹一郎は
意に介さず「想い出ごと包んであげたい」とみどりに求婚する。
幸せになってもいいかとみどりはサーシャに呼びかけた。生きる為の愛を掴みたいと素直に思う。
みどりは樹一郎との結婚を承諾した。

さくらの結婚式に出席した新之介は嬉しさで一杯である。
しかし、その後に待つみどりの結婚を考えると、身を切られるように辛かった。
そしていよいよ、みどりの結婚も近づき、家族一同でみどりを祝福した。
各々お祝いの言葉を述べる中、新之介はみどりに持っていてほしいと形見の日本刀を手渡す。
皆、口には出さなかったが、みどりが精一郎・忍の本当の娘であると薄々気づいていたのだ。
みどりは刀を受け取って「幸せになります」と言った。

樹一郎との結婚式当日。式を行う教会に次々と招待客が訪れていた。
みどりは樹一郎の海軍の友人に紹介される。
その中に軍の通訳をしている男性が居た。サーシャだった。

215 名前:あすなろ坂第9部 蒼空編1/4[sage] 投稿日:2006/10/01(日) 11:53:49 ID:???
1.
みどりはサーシャとの再会に涙を流して喜んだ。
ある日本人に救出されたものの1ヶ月生死の境を彷徨い、後を追って奉天を訪ねた時には有馬家の
人々は内地へ帰っていた。サーシャもそのまま引き取られて幸せな日々を送れた、との事だった。
「みどりの幸せを祈り続けてきた。祈りが通じた」と言われ、みどりはハッとする。
友人がみどりの想う相手だと知った樹一郎は、黙って2人を見つめていた。
その時、式が始まるとの声がかかる。
思わぬ再会に心が揺れるみどりの様子に、樹一郎は式を少し遅らせるよう頼み、別室に話し合いの
場を設ける。みどりがサーシャを選ぶなら引き下がるつもりでいた。
みどりと2人きりになったサーシャは、サーシャ自身も結婚を控えた身だと嘘をつく。
自分の存在は想い出になってしまったのだと落胆するみどり。
想い出の言葉「ダラゴーイ」は男の子に対して使われるものだった。女の子には「ダラガーヤ」、
ただ、古い言い回しで今は殆ど使われない。言葉、想い出、そして幸せも新しく生まれていく。
サーシャは「ダラガーヤ」と樹一郎の下へみどりを送り出した。
樹一郎が心配な信子、みどりとサーシャの結びつきを知るさくら、結婚を祝福する列席者が
見守る中、みどりは想い出ごと受け止めてくれる樹一郎との人生を選ぶ。

後日、樹一郎はサーシャから結婚話が流れたと聞かされる。みどりをすんなり渡す為の嘘だったの
ではと疑うが、深くは追求出来ず、良い縁談を探してやると約束する。
サーシャの幸せを願うみどりも、相応しい相手を見つけるべく張り切った。
しかし、どんなに良い条件の相手でも好みに合う女性は居らず、サーシャは断り続ける。
「サーシャはみどりを生涯唯一の女として愛しているのよ」さくらはそう言った。

みどりはいつしか樹一郎を心から愛し、生きがいになりたいと思うようになった。
樹一郎にとって、みどりは既に生きがいだった。
「女は愛を守る為に寄り添いたがる。男は愛する者を守る為に、祖国を守る為に出て行く。
この天と地の何処でも、お前の住む処が俺の祖国だ」と告げる。
軍事大国日本の歩む道が正しいかどうかは、いずれ歴史が答えてくれるだろう。
みどりは自分自身の歴史を愛の色で染めたいと精一杯尽くした。
そして、昭和16年12月。太平洋戦争に突入する。

216 名前:あすなろ坂第9部 蒼空編2/4[sage] 投稿日:2006/10/01(日) 11:54:37 ID:???
2.
みどり・樹一郎共通の友人として、サーシャは時折加納家を訪れた。
「樹一郎は、みどりを愛すれば愛するほどみどりの為に戦う男だ」と言う。
女の為に戦う男が居るなら、女はその男の為に何をすればいいのだろうとみどりは思う。
出来るのはただ無事を祈って待つ事だけだ。
信子は樹一郎不在時のサーシャの訪問を快く思っておらず、みどりを非難する。樹一郎への愛情が
ないから子供が出来ないのでは、等と嫌味も多く、刺々しくなっていった。

義父(軍人)から突然の電話が入る。樹一郎の乗る戦艦が、海戦で米国巡洋艦の集中砲撃を受けて
沈んだ、という知らせだった。みどりは一時的に不安定になるも、ひたすら樹一郎の生還を信じて
待った。そのみどりの下へ電報が届く。
漂流中、日本船に救助されて基地へ帰着したとの樹一郎からの連絡だった。

戦局は次第に行き詰まり、日本軍は劣勢に傾いていた。
一時休暇で戻ってきた樹一郎も既に日本に勝ち目はないと悟っていた。しかし、国土や国民を守り、
少しでも有利な条件で終戦に持ち込む為には、最後まで徹底的に戦わねばならないとも思う。
「声が聞きたくなったら開けてみてくれ。俺の心はいつでもその中にある」とみどりの懐に遺書を
入れ、再び戦地へ発った。
そして、フィリピン沖で樹一郎が戦死したとの知らせが入る。みどりは今度も絶対に樹一郎が
戻ってくると信じたが、2度目はなかった。

東京も空襲の脅威を受けるようになり、みどりは敵機を見て呆然とする。アメリカに勝てるわけが
ない、もう生きていてもしょうがないと1人彷徨い歩き、駆けつけたサーシャに助けられた。
「私達は2人で1人だった。あの人が死んだら私も死んだのと同じ」と自暴自棄状態のみどりに、
サーシャは「2人で1人なら、君が生き続ければ樹一郎も永遠に死なない!」と力づける。
その腕の中でみどりは泣いた。

みどりは樹一郎の遺書を初めて開いた。その中には、「みどりと巡り逢えた運命へ感謝する」
「肉体は滅びても、みどりが生きる限り俺もその中で生き続ける」「みどりはサーシャと幸福の
道を歩んでほしい。生命かけて幸福になってほしい」などとあった。
樹一郎の心を知り、みどりは生きて行かなければと思うのだった。

217 名前:あすなろ坂第9部 蒼空編3/4[sage] 投稿日:2006/10/01(日) 11:55:09 ID:???
3.
年が明けて昭和20年。サーシャが樹一郎の四十九日の為に加納家を訪れた。
信子は相変わらずみどりとサーシャの仲を疑っており、樹一郎の死を待っていたのだろうとなじる
始末。帰り際、みどりはもう家には来ないよう頼んだ。
サーシャは「君が僕の所へ来るか?」と返し、口篭るみどりに「愛している」と告白した。
一生でも待つと言い残し帰っていく。
誰かを愛してもいつかは死んでしまう。なくす事の悲しみに耐えられるのはこれでもう精一杯、と
みどりはこのまま密やかに年老いて、静かに死んでいきたいと思っていた。

みどりは町内での竹やり訓練に空しさを覚える。近所の主婦達は、みどりとサーシャの関係を
好き勝手に噂していた。家では信子が当て擦りを言ってくる。
その様子を見ていた義母は、加納家から籍を抜いて縁を切るようみどりに迫った。
それは、樹一郎亡き後、加納家に縛られる事なく自由に生きてほしいという親心からだった。
結局みどりは有馬家へ戻り、この先未亡人として生きるつもりでいた。以前、さくらに言われた
「周りの人間を不幸にする」という言葉が心に残っている。サーシャは小さい頃から苦労の連続、
源はみどりを守る為に、そして樹一郎も……。
「樹一郎さんはみどりと一緒になって不幸になったと言うの? 若死にしても幸せな人は居るわ」
いつ死ぬか分からないこの世の中、自分の心に素直になれとさくらはみどりに発破をかけた。

東京が大規模な爆撃に襲われる。有馬家の母屋は焼失してしまったが、離れだけは何とか無事
だった。あすなろの木が火から守ってくれたのだ。
みどりはなくす事を恐れすぎていた。なくすより、多くのものを掴もうと努力するのが生きる事で
あるのに生きる勇気を忘れていた。なくしたり、悲しんだりしても、明日こそはまた何かを掴もう。
樹一郎の1周忌が済んだら、サーシャの愛を受け入れて共に生きようと決心する。

8月、広島に原爆が投下される。もし日本が負けたら……と食卓で上った話題に不安になる中、
有馬家にサーシャが現れて、「約束が守れない。君を幸せに出来なくなった」とみどりに別れを
告げた。不可侵条約を結んでいたはずのソビエトが、突如日本に対して宣戦布告をした為だった。
サーシャは敵国の人間としてみどりの目の前で捕えられてしまう。

218 名前:あすなろ坂第9部 蒼空編4/4[sage] 投稿日:2006/10/01(日) 11:56:12 ID:???
しかし、みどりはもう泣かなかった。愛した為に悲しみを知っても、愛した事を後悔せずに強く
生きていきたかった。
その数日後、日本は終戦を迎える。

10月末。有馬家の人々もそれぞれ動き始めている。
サーシャの行方は依然として分からない。一生でも待つと言ってくれたサーシャを、今度はみどりが
待ち続けるのだ。
待ち続けて……帰って来なくても、幸せだったときっと言い切れる。幸せは形ではない、明日こそ
と思う情熱こそが幸せなのかもしれない、と笑顔で語るみどりを芙美は眩しそうに見つめた。
『みどりは私の願いを受け継いで生きていってくれる。明日こそ檜になろう。なれないと分かって
いても、明日こそは……』
そう願いながら生きてきた芙美の人生に悔いはなかった。そのまま芙美は永遠の眠りに就く。

あすなろに新芽が出ていた。空襲で熱風に煽られたにも拘らず、あすなろは逞しく生きている。
ふと、みどりがその先に目をやると待ち望んでいた顔を見つけた。
みどりとサーシャは駆け寄り、強く抱き合った。

明日こそは……そう願いながら生きていく。今日も、そして明日も。《あすなろ坂 完》


妻━━━新吾──┬──芙美━━━━━武史──┬──妙━━━耕三   【太字は婚姻関係】
                │                          │
    おきく──新之介━┯━珠恵===光太郎──史織━━━昌平
                    │               │
                    │       綾公路──‐┘
            ┌───┼───┐
            │      │      │
    源━━━詩絵     武雄    忍━┯━精一郎
                           │
                            みどり━━━樹一郎===信子
                          │
         さくら━━宮園       └────サーシャ